№5827:「自分の人生を生きる」とはどういうことか
こんにちは。遠藤です。
※過去分(4740回分)はこちらにあります。
さて、土曜日は(できるだけ)いただいた質問にお答えしています。
【今週のご質問】
「遠藤さんはFBL大学を中心に『自分の人生を生きよ!』というメッセージを発信していますが、『自分の人生』とは具体的に何を指しているのでしょうか?」
【私の考え方】
「自分の人生」とは「自分の価値観に沿って生きる人生」のことです。
価値観は誰しもが持っています。
価値観というと難しくなるかもしれませんが、これが好き、あれは嫌いといった「好き嫌い」もすべて価値観です。
わかりやすい項目が常に言っている「3つの自由」です。
これは経済的自由、時間的自由、精神的自由です。
つまり、どれだけ年収が欲しいか。
どれだけ時間の自由が欲しいか。
どれだけ精神的に自由でいたいかです。
これらは一気には手に入りませんから、20代、30代、40代と少しずつ望む状態に近づけていく必要があります。
これが「人生が末広がりになっている」という状態です。
価値観は人によって違います。
故に「3つの自由」の欲求度も人によって違います。
したがって、年収300万円より年収2000万円の方が価値観が高いということにも、自由度が高いということにもなりません。
ここで超重要なってくるのが「自分の定義」です。
安岡正篤氏の著書に「自分=独自+部分である」と記されていました。
これは素晴らしい名言だと思います。
文字通り「独自であると同時に部分である」という意味です。
「独自」は「個」と言い換えてもよいと思います。
多くの人は「どちらか」か「どちらでもないか」です。
「独自だけ」の人は我欲です。
自分が楽しければいい、自分が充足されていればいいという人です。
「部分だけ」の人は多くのサラリーマンです。
会社の歯車として機能しているだけで「独自」はありません。
両方ないのは人生をさまよっている人です。
「自分が何者なのか」的などうでもいいことに悩み、組織やチームにも馴染むことができない人です。
そうではなく「個(独自)」としての個性を持ち、「部分」としてチームで動くことができる人が「自分」です。
こう考えると「人に役立っていない人」は「自分の人生を生きているようには見えない」ということになります。
逆に「人に役立っている人(そのように見える人)」でも、疲弊していたり、薄給ということでは、これまた「自分の人生を生きているようには見えない」となります。
本人が「私は自分の人生を生きている!」と思っていても、まわりからそう見えなければ意味がありません。
まとめると「独自であり部分である人(=自分)」が、各自が考える価値観(3つの自由)を時間軸の中で増やしていくこと」が「自分の人生を生きる」ということだと思っています。
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