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[小説 祭りのあと(5)]八月のこと~夏祭りのあと(後編)~

(前編が #小説記事 まとめ に取り上げていただけました!)

 日中の暑さからは想像もつかないような、涼しい夕凪が交差点から吹いてきた。
 夕陽の青みがかった赤が、僅かに残る雲を夏の爽やかさと憂いを帯びて照らしていた。
 そして金座商店街の、一日だけの夏祭りも始まった。

 岡本製菓店の店先は準備万端だった。
 裏返したビールケースの上に座布団を二枚。低めのテーブルには小さなガスコンロと一つだけのおたま。濡れタオルとバケツも忘れていない。出来上がったカルメラ焼を冷やすためだ。
 もちろん重曹とカラフルなザラメ糖も準備し終わっていた。白・赤・黄・緑・紫・橙、そしていつものザラメ色。
 すみこさんの暑さを凌ぐために、陽治は扇風機も準備していた。

 陽治の手に引かれて、すみこさんが店先にやってきた。
 僕はどうしても気になり、ヨーヨー釣りの準備を終えてすぐに様子を見に来た。
 引き摺る足取りは覚束なく痛々しい。しかし彼女の表情はとてもにこやかだった。この前まで店内で僕たちを見守ってくれていた時のようだった。
 座る位置を確かめて、すみこさんはビールケースにゆっくりと腰掛けた。 

 「おばあちゃん、こんばんはー」
 「あら、恭ちゃんいらっしゃーい」
 「僕が一番のお客さんでもええですか?」

 僕は思い切ってすみこさんに尋ねた。
 僕ができることは、今回はここまでだ。
 すると彼女はこれまでの弱々しさが嘘のようにキリッとした風情になり、一気に菓子職人の姿に変わった。

 「まいどありー」

 表情は凛々しく、曲がったままの背筋にも気合が入ったように見えた。
 陽治は古めかしい扇風機のボタンに手をやった。

 「陽ちゃん。扇風機はええわ。風で火が煽られるけぇ」
 陽治は素直に従った。その背中にその言葉。陽治はとても嬉しそうだ。
 すみこさんはコンロの栓を捻り、マッチで火を付けた。

 「それじゃあ恭ちゃん。何色にしましょうかね」
 僕はオレンジ色をお願いした。試作は一切できなかったそうだ。
 しかしすみこさんが全身から醸し出す心意気から、失敗などしないと僕は素直に感じた。


 「桜井、ごめん。大分待たしたかな……」

 白い肌の締まった脚をショートパンツから覗かせた野球小僧は、西口の端で佇む金魚柄の巾着を持った女の子に声を掛けた。
 「ううん。折角お母さんに綺麗に着せてもらったけぇ、着崩れせんようにゆっくり歩いてきたんよ。今さっき着いたところ」
 白い肌の少女は、褐色の少年に輝く微笑みで答えた。

 全力疾走で息を切らせたままの信くんは、目の前の桜井さんの姿を見て立ち尽くした。
 青い朝顔をあしらった浴衣姿は、学生服姿とも普段着とも違う清廉な色気を放っていた。
 信くんは明らかに戸惑いながらも見惚れていた。
 そんな信くんを見て、桜井さんもまた恥ずかしそうだ。
 国道から吹き上がる日中の熱気が籠った風も、若い二人には涼しく爽やかなものに感じたに違いない。
 照れ隠しで左手で頭を掻きながら、信くんの右手は自然と桜井さんの左手に差し出された。彼女も自然な流れで彼の手を握った。

 「じゃあ、まずは何処に行く?」
 「私、お腹がすいちゃった。まことくん何が食べたい?」
 「そうじゃのー……たこ焼きでもいいか」
 「うん」

 ぎこちない会話のままで、二人は少しずつ混み始めた通りの中に入っていった。

 僕はヨーヨー釣り会場に急いで戻った。
 店番をしていた母は、ビニールプールの周りを囲む小学生たちへの対応でてんてこ舞いだった。僕はすぐに母と替わって子供たちの相手を始めた。

 オレンジ色のカルメラ焼は荷物置きの折り畳み椅子に置いておいた。  
 「あら、これって岡本さんちのカルメラ焼じゃないん」
 椅子の上の小さな紙袋を一目見て、会計に回った母はすぐに気付いた。
 「まぁ、橙色…綺麗ねぇ…うん、凄い。やっぱりおばあちゃんの腕は確かだわ」

 母が宝石のようだと言った理由が、僕にも分かった。
 すみこさんがふんわりと作り上げたカルメラ焼は、魔法のお菓子だった。
 細やかな気泡が混ざった素朴な表情の中に、すみこさんの菓子店に捧げた人生が詰まった、誰にも真似のできない奥深い輝きを放っていた。

 「俺、いいとこ見せちゃろっかな」
 ビニールプールの向こう側に、二人のカップルが現れた。信くんと桜井さんだった。
 大人の僕までも、彼女から放たれる淑やかな優美さには目が眩みそうになった。
 「じゃあ、お兄さんはそこを邪魔しちゃろっかな」
 僕は敢えて釣るのが難しいと思える竿を彼に手渡した。
 しかし何年も夏祭りで鍛えた彼の腕は、そんなハンディキャップなど物ともしなかった。

 「わぁ、凄い!すぐに取れた!」
 どうだと言わんばかりに、信くんは釣り上げた黄色のヨーヨーを手に取って何度もバウンドさせてみた。
 すると勢い余ったヨーヨーは豪快に割れて、彼の服に水が思い切り掛かってしまった。

 「あぁ……やっちまった」
 彼女はクスッと笑い、おもむろに巾着からハンカチーフを取り出した。
 「青海苔が付いとうよ。ほらまことくん、こっち向いて」
 信くんは慌てて口元を右腕で拭ったが、青海苔はまだ付いたままだった。
 桜井さんは手に取った白いハンカチーフを彼の口元に丁寧に当てて、二枚の青海苔と僅かに残ったソースを拭き取った。
 浅黒い彼の顔は赤く染まった。大人の僕の前で、彼は少し決まりが悪そうだった。

 「あ。花火って何時だったっけ?」
 ほんの数十発だが、店主が少しずつカンパして毎年花火を打ち上げている。
 その時間までにはまだ一時間以上ある。
 「そうだ。岡本さんの所に行ってみいよ。カラフルで綺麗なお菓子を作っとられるけぇ、見に行ってみたら」
 僕の提案に、彼らはすぐに頷いてすみこさんの許へと歩き出した。

 「いいなぁ……」
 そう呟いた僕の頭を、無言のままで後ろから母が平手で叩いた。
 何で叩かれちゃったのだろう。商売を忘れてボケッと立っていたからだろうか。
 それとも大事なことにようやく気が付いたかと、呆れられたのだろうか。


 すみこさんのカルメラ焼の周りには、例年以上に人だかりができていた。
 子供たちはもちろん、昔からこのカルメラ焼に慣れ親しんできた大人たちも、その技とカラフルかつ美しい出来栄えに、惚れ惚れと見入っていた。
 すみこさんは疲れも見せず、お客さんと楽しそうに会話も楽しんでいた。陽治が時々手渡す冷たい麦茶を口にしながら、休むことなく焼き続けていた。

 花火の場所取りに多くの人が動き始めて、多くの露店前は人が少なくなってきた。岡本製菓店の前も同様だった。
 誰もいなくなって一息ついていたすみこさんの目の前に、信くんたちがやってきた。

 透明のフードパックに入れられた七色のお菓子に、二人の心はときめいた。
 「素敵……おばあちゃんが焼いたんですか」
 「おや。カルメラ焼は初めてかい」
 すみこさんの穏やかな笑顔に、二人は揃って頷いた。
 どうやって作るのかを見てみたいと桜井さんが言うと、残った砂糖のうち、どれがいいかとすみこさんは二人に尋ねた。

 「私、赤がいいです」
 「はいよ。よーく見とりんさいね」

 二人はガスコンロの前にしゃがみ込んで、すみこさんの持つお玉をじっと見つめた。
 赤い砂糖と水を入れてゆっくりとかき混ぜる。火力の加減も絶妙に砂糖水が沸騰し始めた。慌てることなくすみこさんは重曹を目分量で入れて、再びかき混ぜた。
 すると赤い砂糖水が膨らみ出し、鮮やかな薄紅色のカルメラ焼が程なく出来上がった。
 「凄い……凄いです、おばあちゃん!」
 華麗な手捌きとたった数円で出来上がった芸術品に、若い二人も只々感動した。


 「お二人さんは付き合っとるんかい?」

 唐突過ぎる質問に、信くんは動揺して目を丸く見開き、黙り込んでしまった。

 「はい。よく分かりましたね」

 桜井さんはなんとそう答えたのだった。
 驚いた信くんは思わず彼女に顔を向けた。彼女の穏やかに微笑む横顔に、彼の心がさざめいた。

 「そうかねそうかね。道理で似とると思ったわ。私とお父さんに」

 花火会場へと向かう人々の喧騒の中で、その場だけ静寂に包まれたようだった。


 弥太郎さんは、戦争帰りの腕っぷしの強さとは裏腹に、女性に対しては弱腰だった。
 片や町医者のお手伝いをしていたすみこさんは、街でも器量良しでそれは評判だった。

 当時では珍しい恋愛結婚だった。
 すみこさんは「私の一目惚れよ」といつも言っていた。

 「こんなに綺麗な落雁を作られる方は、きっとお心も美しいのでしょうね」
 お店でこう語りかけられたのは、じゃがいものようなあばた顔の若い弥太郎さん。当然いちごのように真っ赤になった。

 すみこさんには兄と弟がいたが、召集され戦地で亡くなった。遺骨は戻らず、兄へ渡したお守りと弟の凹んだ水筒だけが帰ってきた。
 「弥太郎さん、あなたがご無事で帰ってきてくださって、私、本当に良かった……」
 待ち合わせた港町の突堤に腰掛けた二人。泣き出したすみこさんを弥太郎さんはそっと抱き締めた。
 その日は弟の命日。暗い曇天の隙間から一つ、ほのかに星が瞬いていた。

 確かにアプローチをかけたのはすみこさんだった。
 でも、先に一目惚れをしたのは、弥太郎さんのほうだったのだろう。
 若い二人の姿を自分の胸の奥にしまったセピア色の写真と重ねて、すみこさんは再び優しく微笑みかけた。

 
 「お、俺にこの緑、作ってもらっていいですか?」
 首まで真っ赤になった彼は照れ隠しですみこさんにお願いした。
 透明のパックに丁寧に置かれた紅色のカルメラ焼とお玉の中で転がる緑色の砂糖は、ルビーとエメラルドのようだった。少年と少女のそれぞれの想いを表すように、鮮やかに美しく膨らんでいった。


 アーケードを取り囲む歩行者天国の道路はとんでもない人だかりになっていた。花火が打ち上がるまでもう少し。僕たち店主もお客さんを花火のほうへと促していた。

 「やっぱり人でいっぱい…見えんかなぁ……」

 諦め気味に彼女は言った。横を向いた彼はその寂しげな横顔をしばらく見つめた。

 祭りが終わってしまう。照れている場合じゃない。
 もう、俺には時間がないんだ。

 不意に彼女の左手を、信くんは強く握った。

 「しっかり掴まっとって」
 驚く彼女に、彼は軽く笑い返した。逞しい右脚が蹴り上がった。
 その意気だ。走り出せ。その衝動は本物だ。
 彼女の手を引き、彼はざわつく人々の中に割り込んでいった。
 「大丈夫?」彼は振り向き、一瞬速度を下げた。
 彼女は「うん」と頷き、雑踏の中ではぐれないように、彼の掌をぎゅっと握った。
 野球で鍛えた軽やかな足取りに、彼女は懸命について行った。さっきの一言から感じた彼の自信に満ちた姿と、小麦色の力強いその腕を信じて。

 無我夢中だった。駆け抜けた。
 決して離さない。思い出だけで終わらせない。
 そう、言葉にできない意気地なしなのは分かっている。
 せめてこの手のひらから、この想い、伝わってくれ……

 白い草履の赤い鼻緒が食い込んだが、彼女は痛いとは思わなかった。
 五色のカルメラ焼が入った袋が、巾着と共に彼女の手の下ではらりと揺れた。

 「ほら、こっち。もう少し」
 二人は五階建てマンションの階段を上がっていた。彼女の手を引いて信くんがやってきたのは、最上階の通路の一番端だった。
 「わぁ……河原が一望できるん」
 そこは信くん家族が住んでいるマンションだった。共同通路なので住民が数名いたが、二人はそれも全く気にならなかった。
 花火の打ち上げにはどうにか間に合ったようだ。

 ポンッ。
 一発目の花火が打ち上がった。
 三色の引先菊に眼下の人々のざわめきが響き、遅れて重低音がお腹に響いた。
 そこから花火は小気味よいリズムで上がっていった。
 無言のまま、繋いだ手を二人は離すことはなかった。

 第一弾が終わった。暗闇の時間が暫く続いた。
 今しかないと、心に決めた。

 「桜井。俺な……あと一週間で仙台に行くんよ。だから、仕方ないって諦めとった。でも決めた。桜井、俺、桜井のことが……」

 タイミングが悪く、第二弾目の花火が打ち上がった。
 肝心なところで彼の声は破裂音にかき消されてしまった。

 「えっ?何て言ったん、まことくん」
 「い、いや……なんでもない。えっと、連絡取りたいけぇ、携帯番号とアドレス、交換せんか?」

 二度も言うのは恥ずかしかった。

 本当は聞こえていたのだろう。
 もう一度聞きたかったから、確かめたかったから彼女は尋ねたのだろう。

 「うん、いいよ」

 錦冠が宙に上がり、金色に光った。クライマックスに向かって、夜空が段々明るく照らされていく。
 その明かりを頼りに二人はスマートフォンを操作し、ワイヤレス通信で連絡先を交換した。

 「着いたらどんな街か、教えてね」
 「ああもちろん……俺、今日のこと、忘れんよ」
 言葉を精一杯搾り出した彼に、彼女は軽く頷き、強張っていた彼の表情も緩んだ。

 「じゃけど私、思い出だけじゃイヤ」
 「えっ?」

 彼女は精一杯背伸びをして、油断した彼の唇にキスをした。

 浴衣の襟元から覗く後れ毛が、夜風に緩くなびいた。

 走った時にかいた汗の匂いも、二人には少しも嫌なものではなかったのだろう。
 花火が終わるまで、彼女を送り終わるまで、二人は決して手を離さなかった。

 そう。想っているだけでは、何も叶わないんだ。

 「あぁ。花火が始まったねぇ」
 すみこさんはゆっくりとガス栓を閉め、コンロの火を消した。
 すっかり通りには人気がなくなった。
 後ろで座っていた陽治は立ち上がり、すみこさんの目の前にしゃがんで声を掛けた。

 「ばあちゃん、お疲れさんでした。暑かったじゃろう。えらいことない?」
 首を横に振り、彼女は微笑んだ。
 「いんや。こんげんそねーなことなかったわ。楽しかったわぁ……こくーに楽しかった。ありがとうね、陽ちゃん。ほんに、ありがとう」

 笑顔の中にもさすがに疲れの色が見て取れた。陽治はすみこさんをゆっくりと立たせて、肩を支えながら店の中へ入っていった。
 光男さんは陽治と替わってすみこさんに肩を寄せ、陽治に深く礼をした。

 疲れて横になったすみこさんを見送って、陽治は店先の片付けを始めた。
 僕が片付けを終えて到着すると、すっかり元通りになった店の前で、陽治はビールケースに腰掛けて手持ち花火を瞬かせていた。

 「陽ちゃん。思い通りにできたか?」
 「ああ。俺がせんでも、ばあちゃんしっかりやっとったよ」

 これでもう十分なのだと、彼も納得したのだろう。充実感を演じつつそう言った。
 焦げ臭い白煙の向こうに見えた、金色の火花を見つめる陽治の寂しげな瞳が、忘れられない。

 「線香花火やっていいか?」
 「俺のも残しといてな」

 すみこばあちゃんと陽ちゃんとの最後の夏祭りが、たくさんの人たちの夏休みを鮮やかに優しく彩り、静かに終わりを告げた。


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