[小説 祭りのあと(16)]二月のこと~マシュマロと黒い手のひら(前編)~
午後十一時を超えた厨房に、有紀子さんは銀色に光る作業台に向かっていた。
コンロの上の小鍋から白い液体をボウルに取り出し、栗のコンフィチュールを流し入れて混ぜ合わせた。するとそれは渦巻き状に広がり徐々に美しい黄金色へと変わっていった。
作業台の片隅には、僕が貸した黒い石がアイスクリームグラスに入れられて大事に置かれてあった。
黄金色になった液体を冷えないうちに粉砂糖の入ったバットに落とし入れ、彼女はそこに少しだけコンフィチュールを乗せた後、くるんと包んで丸くした。
「よし」
そう言うと彼女はふとグラスに目を遣った。
黒い石はグラスのカッティングのお陰だろうか、彼女には七色に輝いて見えた。
母に無理矢理引っ張ってこられたパティスリー・ウエムラは、いつものようにカラフルで華やかだった。
「これこれ!あんたたまには、親孝行でこれくらいご馳走しんさいよ」
何かにつけてご褒美だのご馳走だのと嬉々とするのは、何処の女性も同じなのだろう。いい歳の母でさえこうなのだから。
溜息をついて母の指差すショーケースの中を見ると、そこには小さな円盤状の色鮮やかなお菓子が並んでいた。
「これ、マカロンって言うんですよ」
勤めて三年が経とうとしていた有紀子さんが、流行りに疎い僕にそう教えてくれた。
「マカロンの上にドライフルーツをあしらってみたんです。これが苺で、これはピスタチオ。季節で色々と変えてみようかと思っているんですよ」
ショーケースの前でしゃがんで「ほぉーっ」と唸っている僕の横では、母が少女のようにどれにしようかと迷っていた。
こんな姿を見ると母もなんとも可愛いものだと、僕は不覚にも思ってしまった。
「いらっしゃいませー」
有紀子さんの声の先には、紺色のつなぎ服に航空会社のロゴが背中にバッチリ載っている青いジャンパーを着た青年がいた。
誰かへの贈り物だろうか、焼菓子コーナーで色々と手に取って迷っているようだった。
「いつもありがとうございます。どなたかへのプレゼントですか?」
「えぇ。少し年上の女性なんですけど、どんなものが好きかなと思って」
厨房の奥から店主の貴一さんが出てきて、僕らの接客をしてくれた。
彼によると、あの青年は宇部空港で整備士をしているそうだ。度々この店に来てはプレゼントとしてお菓子を買って帰るので、有紀子さんは包装などを毎回懸命にしてあげるのだそうだ。
「はい、お待たせしました」
貴一さんに渡してもらった五個のマカロンを手にして、母は上機嫌だ。
店を出る際にちらっと二人を覗いてみた。
有紀子さんの甲斐甲斐しい姿は、明らかにただのお客さん相手の態度ではないと感じた。
それから数日後、僕は空港にいた。
空港を経営する人がなんと父の同級生だったのだ。そのお陰で空港内のあらゆる電化製品を、わざわざこの小さな電器店に発注してくれたのだ。時々修理や新品への交換に呼ばれていたのだが、僕が来たのはこの日が初めてだった。
この日は乗務員室の冷蔵庫が故障したとのことで呼ばれた。ちょっとした接触不良を直して、修理はすぐに終わった。
作業鞄を肩に掛けて駐車場に向かう途中の喫煙所で、僕は偶然あの洋菓子店で見かけた青年を見つけた。
「あっ」
失礼にも僕が指差すと、ぼんやりと煙草をふかしていたガラス越しの彼はビクッと驚いた。恥も外聞もない僕は煙草を吸えないのに、喫煙室の扉を開けて入っていった。
「この前、上村さんの店に来とったでしょう」
「えっ、どうして知ってるんですか?」
やたらずけずけと質問してくる僕に、彼は不思議な生き物と山奥で遭遇したかのように目を丸くしていた。しかし話すうちに危険な生き物ではないと分かってもらえたようで、警戒心は解いてもらえた。
彼はこの空港に勤めて二年半になる、内田翔輝という青年だった。
パイロットだった父親に憧れて、同じ飛行機に携わる仕事がしたいと整備士になった。これまで羽田、小松と点々としたそうだ。
一見田舎風の素朴な雰囲気だが、実は神奈川出身で訛りなど一切なく、綺麗な標準語を話す都会人だった。
「いやぁ……CAっていうのは、見た目通りお高い人ばっかりですね」
「あぁ……確かにそんな感じはするね」
先程修理をし終えた乗務員室で見かけた女性CAたちを見た限り、僕もそう思えた。
打ち合わせ時間に修理のタイミングがぶつかったのだが、なかなか緊張感のある空気が漂っていた。常に人の目に晒され続ける会社の顔という職業柄、プライドが高くないとやっていけない仕事なのだろう。
「あれ?もしかしてあそこで買ったお菓子って、CAさんにあげとったの?」
相変わらず遠慮のない質問に、彼は煙草を口にくわえつつ照れていた。
「ええ。美味しいって言ってはくれるんですけどね。そこ止まりですよ。俺みたいなのは眼中にない感じで」
彼は白い煙を真上に吐き出した。
僕は恋心が分からないからこそできる不躾な質問を、またもや彼に投げ掛けた。
「美人な人がタイプなん?」
彼は僕を見て、そういう訳ではないと否定した。
「ただ、何となく憧れってやつですかね。ドラマみたいな恋愛に発展しないかなぁって期待はありますよ」
ほう。それは僕でも分かる。
こんな僕でも辞めた会社の総務の女の子に何度もアプローチを試みたことがあるし、逆に同期の子に迫られたこともあった。社内恋愛が一番結婚に結び付くという話もあるくらいだから。
「そういえばバレンタインデーじゃねぇ、もう少しで。貰えるあてはあるん?」
「そんなものある訳ないじゃないですか。CAはそんな感じでしょ。整備士は男だらけですし、貰える環境じゃないですから」
「そうかぁ……」
内田君のその言葉に気のない返事をしながらも、これはチャンスじゃないのかと僕は考えていた。
もちろん僕じゃなくて、有紀子さんのチャンス。
ただ彼女の本心を確かめない限りは、下手な策は打てない。
仕事に戻ると言った彼と別れて、僕は駆け足で車へと向かった。一刻も早くその事実を確かめなければ。
バレンタインデーまであと八日なのだ。
「ははーん。やっぱりそうじゃったか」
幸は確信を得たかのような表情でそう答えた。その日の夜もまた、僕は浅田家の二階に押し掛けていた。
「私も見たんよ、その整備士さん。有紀ちゃんのことは意識しとらんね。でも悪い気はしとらんと思う」
「話したんか、どっちかと?」
陽治の質問に「全然」と幸は首を横に振った。勝手な想像かと陽治は呆れた。
「いやいや陽ちゃん。女性の勘は鋭いから本当かも知れんよ」
「おっ、恭くんもようやく分かってきたねぇ、女の勘ってやつが」
あれ?この空気はまずい。
幸を調子に乗せてしまったか。もしかすると暴走モードが発動する。
嫌な臭いが漂ってきた。
「はい決めたぁ。今から確認しに行ってきましょう!」
「はぁ?誰がぁ!?」
僕がそう言うのが聞こえなかったのか。躊躇なく立ち上がった幸は、引っ張っても軽い小柄な僕の首根っこを無言で摑まえて引き摺り始めた。
勢いが凄過ぎて眼鏡は鼻からずり落ち、なす術もなく危うく階段を引き摺り下ろされるところだった。
もう嫌だよ……やっぱり予感は的中した。
閉店後のパティスリー・ウエムラの厨房にはまだ灯りが付いていた。
バレンタインデーのチョコレートやお菓子の注文に間に合わせようと、このくらいから毎年夜遅くまでお菓子作りに精を出しているのだ。
幸は閉まったお店の自動ドアを叩く。そして恥ずかしげもなく店の中に向かって手を振ってジャンプをし、全身で存在をアピールした。
有紀子さんが幸に気付いた頃、僕は通りすがりの人々に、ただの酔っ払いだと頭を下げてごまかしていた。
「どうしたんですか、お二人揃って」
「ごめんね、忙しいのに……ちょっとこの人がどうしてもって聞かなくって」
明らかに疲労の色が見える有紀子さんに構うことなく、幸はズバッと本題を切り出した。
「有紀ちゃん。あの彼のこと、どう思っとるん?」
「えっ……」
『あの彼』で分かるものなのか。
幸の堂々とした言いっぷりを僕は全く理解できなかった。
しかし女性同士の勘というのはやはり凄かった。
『あの』で内田君が伝わったのだ。
「嫌いじゃ、ないです」
「『嫌いじゃない』って、まどろっこしいのぅー。好きなんじゃろぅ、ねぇ!?」
確かこいつは一滴も飲んでいない筈だ。
しかしこの絡み具合は明らかに酔っ払いである。僕はまたもや何故か、通りすがりの人たちや有紀子さんに対して謝っていた。
これ以上大騒ぎされると恥ずかしかったのだろう。有紀子さんは黙って首を縦に振った。
すると天然酔っ払い娘の勢いは更にエスカレートした。
「じゃあ早速、バレンタインデー大作戦といきましょう!」
いやいや声がデカすぎる。
分かった分かった。僕は改めて話をするからと、この女を羽交い絞めしながら有紀子さんと別れた。
店の前で佇む彼女は手を振りながら、何がどうなっているのか理解に苦しんでいた。
一方で僕は、何すんのと暴れるこの天然娘に対して冷静に聞いてみた。
「あんた、酔っぱらっとる?」
ヤツは素直に頷いた。天然ではなく本物だった。
夕飯の前に缶ビールと熱燗を引っ掛けてきたらしい。いくら呑んでも顔に出ない人間はこれだから困る。
まぁ仕方がない。話が前に進んだのだから、それはこいつを褒めてやろう。
朝になったらこのやろう、全く覚えていないだろうけど。
楽しそうにハイテンションな叫び声が寒々しい静かなアーケードに響き渡り、僕は相変わらず擦れ違う人々に頭を下げ続けていた。