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「もしかして」と「希望」と「絶望」の三角関係
ずっとずっとずっと上手く言葉にできないことがある。
こうして文にしようと、構えるとそれは、心の奥に隠れてしまう気難しい恥ずかしがり屋のようだ。
ひとつだけ言えることは、自分が思うよりも、自分は何倍も何倍も人に、そして、神に、さらには宇宙に、受け入れられているだけでなく、愛されていたし、愛されているという驚きが、疑いから喜びに変化しつつあるということだ。
「ぼく」は、今は自分を「ボク」と呼ぶことにやっと居心地の良さを得て、人間生活に安心しているけれど、生まれた身体的な性別は、(男性)の自分の在り方がずっとずっとわからなくて、男性らしい「俺」「オレ」なんて使うのは考えることもできず、「ウチ」や「自分」や「・・・」で誤魔化しの演技で、生活を送っていた。
「女の子になるんだろう」というより「なんて男の子なんだろう」がずっと強くて、それを誰にも言えなくて、鏡の中の自分にだけ無言で秘密を共有していた。
あまりにも無意識に男性に惹かれる幼稚園児頃からの自分は、「欠陥人間なのかもしれない、、、」という思いが心のしこりになってしまっていたのを、大人になって「同性愛」や「ゲイ」という言葉を知って、死にそうになるくらい震えながら親友と思えるとても好きだったクリスチャンのイケメンにカミングアウトした頃だった。
不思議だけれど、自然と「ボク」と言えるようになったのは、その大きな転機からだ。
でも、まだ正直に言えば、ぼくの中には、ボクやオレやワタシやわたし、アタシが分裂していて脳内会議を繰り返していて、心がひっそり静ずまることは、まだまだ少ない。
でも、少ないけれど、演技を傍観している客席には、「ぼく」が座っている。
それがとてもとても安心し、微笑ましく、温かい気持ちで、「幸せ」と感じる。
そんな気持ちを感じるようになって、ふと気がついたことは、周囲の人も神様も、ぼくのことをとてもとても愛してくれてたんだってこと。
理由は良くわからないけど、あなたは「とてもとてもピュア」だと言われるところに、答えがあるのかもしれない。
自分が心の内側で、知らず知らずに解離してたことで、悪いことだけでなく、良いことが沢山あったように思える今日この頃。
ゲイとして、「ぼくは」男の人が好きと堂々言える今のこの世と「自分」は、完璧なんかに程遠くても、誰かからしたら豆粒みたいな出来事に見えたとしても、ぼくには「天国」なのだから、それが大切なんだと、そう思う。