松山と東出がいい男すぎな映画。大人とは被査定マインドから外れて余計な問題を起こさないこと【映画「Blue」】
アマプラでひっそりと追加されていた映画「Blue」を観たが久しぶりに邦画で食い入るように観れた。
低予算で公開当初も上映が多い方ではなく出演している役者のファンぐらいにしか届いていなかったようだが、主演の松山ケンイチと東出がボクサーという設定に負けない絶妙に良い大人を演じていて良かったのでその辺りを書く
。
試合をすればするほど負け続ける瓜田とその幼馴染で日本チャンピオンに迫る小川の二人を主役に対比されながら描かれていく。
この映画の良さは負け続ける瓜田の姿を単なる悲哀的で下剋上に燃える人間として見せるのではなく、彼自身にもボクシングを続ける哲学が語らずとも感じられるように見せられていくことだろう。
負け続ける彼がなぜ後輩に批判されながらもひた向きにリングに上がり続けているのかは、他にやることがないからとか、このままでは終われないから勝利で周りの目の天地をひっくり返してやるということではない。
彼がおそらくどこかで他者からの査定マインドから外れてしまったがゆえにボクシングを純粋に愛してしまったからだろう。いやボクシングを愛したからそのマインドから外れたのかもしれない。どちらが先かは語られていないので分からないが。
勝敗を査定されるボクシング愛してしまったからこそその矛盾と共に結果がだけが伴わない瓜田なのである。
そしてそのマインドは彼のジムの後輩と関わる姿勢や生活の描写によく表われている。
小川や後輩の試合前には自らが分析して対策を練りにいったり、練習中後輩も誰もやろうとしない掃除を自らがすぐにしにいったり、新入りや後輩にも常に低姿勢で助言をしたりなど、年齢と共に上下や成績という評価軸からは外れた成熟した精神性が見える。
そしてその瓜田とは相対的な人間として勝ちにこだわる小川が描かれるかと言うとそうではない。面白いのは彼自身に関する「自分の中の問題」は確かに勝ちにこだわるあまり度々起こるのだが、それ以外におけるジムや他者に関する問題が起こるときは彼だけそこにいつもその場にいないのである。
それを身体的な感覚で何かを感じるのか分からないが、自分のこと以外は他者の話に関せず自分の問題意識と向き合っている人ほどそういう面倒くさい場に出くわさない人は確かに現実でもいる。
そこもおそらく瓜田とタイプは違えど余計な評価軸の中に自分を置かずに割り切れる器用さがあるからだろう。だから余計なことに巻き込まれずに勝てるし、千佳との扱いも二人の中でその辺りで相違がよく見える。
その二人と相対的に描かれるのはむしろジムの後輩たちや新入りである。彼らは生活でもボクシングでもずっと査定されるマインドの中にいる。
だから何につけても誰かに評価されることで必死であるし、それ次第で人生が決まると思っているから他者を許せず常に「問題を起こしてしまう人たち」なのだ。
査定マインドの中だけで生きると人生において優先されるのは常に「先手を打つ」ということになってしまう。だからライセンス試験では基礎の技の評価より相手に勝つことでその場を主宰することがまず働いてしまうし、瓜田の負けに対しても許せるはずがないのである。
ただ人生に関して最も成熟していると思うのは誰かの先手を打つことでも、常に誰かに査定され続けることで怯えなくてはいけないことではない。
瓜田や小川はほんの一例の人物ではあるが、査定されるマインドから外れて自分の場を主宰することなのだろうと思う。その上で最も重要なのがまず「問題を起こさない」ということ。
瓜田も負けることを何も感じなかったわけではないし、千佳への思いも秘めつつ小川をサポートしてることに対して何も抱えていたわけではない。勝ち負けを超えたボクシングに対しての愛や自分の生活の望みに対して矛盾を抱えてることを吐いたのも人間らしさが詰まっているところだった。
それでも見ている側そして作中の新入りが瓜田に対してカッコいい男と思わされたのは、これからもまず他者から先手を打とうとして問題を起こさないだろうという人間として、男としての垣間見える成熟性だった。松山ケンイチは見事に演じていたと思う。