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フェリーニによる聖書世界を裏書きした教義的古典映画【「道」】

あまり意識しなくとも自然と神的な視点で見せられる映画は傑作と思うが、評判通りこの作品はその部類だった。

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あらすじ
粗野な旅芸人ザンパノに、たった1万リラで売り飛ばされた娘ジェルソミーナ。町や村への巡業を続ける二人だが、自分勝手で女癖の悪いザンパノに嫌気がさしたジェルソミーナは彼の元を離れてしまう……。

フェリーニ作品もこの作品以後と以前の違いで好き嫌いが別れるらしいが、83/2から入った自分としてはそれから人間の陰鬱な精神病にスポットを当てる作り方の基点になったというのは感じられる。

旅芸人ザンパノの助手を務めていた姉のローザが亡くなったことでその妹ジェルソミーナは安い金で人身売買され彼の助手兼奥方として各地方にどさ回りの旅芸人となっていく。

ジェルソミーナは一般的に備われてる社会性や言葉もいつもおぼつかない分絵にかいたような粗暴な亭主ザンパノとソリが合わないまま旅を続けることになる。

そんな彼女を白痴や少し頭の弱い主人公と紹介されたり言語化されることが多いが、実は一般的な人よりかなり繊細で賢い部分が多いことも分かる。

序盤のレストランでザンパノと会話されるシーンでは彼の微妙な訛りの違いに気づき生まれ故郷を訪ねたり、別の場面ではトマトを増やすために種を植えたりしている。

確かに旅芸人であるためそこに植える目的は彼らにとってはなくザンパノはバカにするだけでまた彼の暴行凌辱を受ける日々になる。

しかしそこに頭の弱さを感じるところがどこにあるのか気づくところから我々は始まっていき、芸人としても芸術性を見せる彼女の独特なセンスや表情に魅力を感じさせる。

調べれば映画紹介にもそのような「白痴のような」や「頭の弱い」と紹介させるところから始まっていたようだが、まだ精神病として認められなかった当時の時代性がその言語表現を生み浸透させたのだろうとも思える。

フェリーニ自身もそのような言語表現で脚本も出していたのだと思うが、作品内では逆説的に映像表現によってジェルソミーナの陰鬱から来る愛らしさと賢さを繊細かつ意図的に表現していることも分かる。

ジェルソミーナも旅の道中で自分の人生の意味に悩みザンパノの元から離れるチャンスは何度も訪れるが偶然による人の出会いによって彼女は何度もザンパノの元に戻り旅を続ける。

唯一この作品でじんわり暖かくなれるシーンはジェルソミーナが大道道化師に諭される場面だろう。

ジェルソミーナに対して存在や人生を肯定する存在は彼しかいなかった。道化師自身もザンパノの顔を見るとどうしてもからかい揶揄したくなる犬猿に近い仲だった。

それはなぜなのかジェルソミーナが問うても確かな答えは返ってこないが、一つ言えるのはザンパノは粗暴であるが芸人としては生真面目すぎる部分が強い。

そこを彼は無意識的に見抜き道化師の性格上揶揄したくて溜まらなくなるのだろう。

ザンパノに近づく人間さえ少ない中で彼の本質を見抜いている道化師がジェルソミーナには逆に終始温かい言葉をかけつづける唯一の存在になる。

道化師自身もそれを認識しているのではなく彼女個人に向き合って言葉を選んでいるわけでもなく、ただ行き当たりばったりに確信もなく無責任に「ザンパノはきみが必要だと」いった様子も見られる。

ただジェルソミーナにとってはそれは欲と苦も無く初めて自らの存在の意味を浮き彫りにする言葉だったためにその後の生きる基準として受け入れ自らの逃亡の機会も放棄するに至った。

このあたりの生粋から道化師である人間の、ある人間には揶揄したくなる側面とある人には親身になるこの相反する側面こそが一番人間らしい象徴的な存在になる。

タイトルの「道」にはこの偶然かつ気まぐれな人間の相反する側面を意味する場面に思われる。

その後ジェルソミーナは彼に言われた言葉と貰った石を胸にザンパノのそばにいることを自らの役割として険しい道を歩き続ける。

しかしその道は同じ場所を並走していた大道芸芸人とザンパノによる再びのいざこざによる殺害事件によって彼女は生きる意志を失う。

ジェルソミーナはその殺害現場に立ち会ってしまった衝撃だけではなく、自らが生きる役割として決めた「道」さえも奪われたことで死に至るほどに精神を病んでしまったのである。

その前の泊めてもらった修道院から去る場面ではジェルソミーナに見える違和感を修道女に見透かされ、修道院で暮らすことも提案され彼女は固く断った。

ザンパノは相変わらず根性が悪く内密に修道のキリスト像を窃盗したことによって生まれたジェルソミーナの迷いであり、最後の逃げる機会だった。

その道の迷った選択が最後に彼女の道全てを奪うことに繋がる終わりだからこそかなり切ない映画になる。彼女自身も修道院に暮らせば確かな平穏が待っていると分かっていての選択があの終わりだったのである。


なぜ姉ローザは死ぬ必要があったのか

この作品の基本的な構造としては姉の死によってジェルソミーナがザンパノに人身売買され、旅に出るが最後は見捨てられ亡くなってしまう。時を経て彼女の死を知ったザンパノは自らの罪を悔やみ泣いて終わっていく。

シンプルな話ではあるが元々姉のローザが彼の助手として就き亡くなってしまったのが全ての始まりであり、その要素こそがフェリーニ氏の成長過程で大きく関係したキリスト教義にも沿った物語だったと言われる。

キリスト聖書の始まりには完全な人アダムが存在するが彼が罪を犯したために神は代わりの完全な人イエスをこの世に送る。

イエスはアダムの一切の罪を背負って役割を担うが、最後はユダに裏切られてから弟子にも見捨てられていく。弟子らは彼を失ってから見捨てたその罪を激しく悔い性根を入れ替えイエスとして継承していく話になる。

ローザをアダムに、その身代わりとなって役割を担ったイエスをジェルソミーナにあてはめるとこの作品は教義として揺るぎない物語だったともいえる。

ザンパノは確かに酷い男ではあるが彼の粗悪の性根の浄化にはジェルソミーナの純度と死がどうしても必要だったのだろう。ジェルソミーナはローザの身代わりにザンパノの罪を背負って亡くなる役割を担ったのだった。

またこの映画では火が度々登場する。火は聖書ではこの世に神が人間に与えて「争い」と共に人間の「栄え」を作った贈り物としても象徴される。

ジェルソミーナがザンパノに「献身」していく場面では必ずこの火が一緒に映し出される。そして見捨てられた場面でも彼女は「火をくべなければ」と最後の言葉を残し退場してからは一切火は出てこなくなるのだ。

イエスは最後弟子やユダに裏切られると分かっていても献身的に振舞っていたとされるが、ジェルソミーナと火の度々の登場はその部分を重ねたようにも考えられる。

「道」がクラシックとして今だ人々を魅了するのはこの映画の裏には聖書世界における筋書きと重要人物が裏書きされた教義的映画だったからともいえるだろう。

観客もジェルソミーナの死によって、相反する両義的側面の人間の道にそれぞれの浄化がもたらされるカタルシスを得る。

その人間の過去の人生と本性は最後の別れ際にすべてが現れているともいえるかもしれない。



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