ゲーム再現より原作裏設定が主軸になった【映画「ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ」】
予告から見てると若干肩透かしを食らう映画版だった。
ゲームは昔ニコニコの実況で見たことあったな程度ぐらいしか知らないが、どうやら映画版のドラマは原作の裏設定に主軸を置いた話だったのかなと思う。
過去のゲーム作品内では児童誘拐事件を知らせる新聞などである程度この世界観における裏設定については考察されてきていたらしい。
ゲーム以外にも小説も発売されておりそこでアニマトロニクスに至る裏設定も明かされていたとか。
映画版では期待されたゲームのホラー再現ではなく、世界観に至る話を敢えて詰めるような誘拐事件による捜査を中心にしたサスペンス調で展開されていった。
主人公のマイクの事件のトラウマから犯人に遡る明晰夢や妹のアビーによるイタコ予知、警察女性による不穏なピザ屋の事件捜査など、
オカルト要素と不穏な現実が交錯しながら予想できないサスペンスを期待させる割には結局個人の行動が曖昧だっただけなのは残念だった。
これは映画の見すぎもあるのかもしれないが、マイクが睡眠薬の服薬にこだわっていることを異常に強調されるとその夢自体が彼の妄想だったりする展開の方が来ないと気持ち悪くなったりする。
アビーとの関係性が良くない理由も彼女がマイクの真実に繋がる何かを霊との会話によって知ってるからなのだろうとか勝手に予想しすぎている部分はあったのだが、結局その良好ではない理由もよく分からなかった。
ドラマに関しては序盤で余白作って強調している割には終盤までそのままだったなという印象だった。
児童誘拐事件における複数背景の具現化
児童誘拐事件が主軸になったのはゲームの世界観が80年代をテーマにしている影響は大きかったのだろう。
アメリカは基本的に児童誘拐事件が多いらしい。その一つは離婚によって離れた子供の親権が全てそこで決まってしまうから。
日本のように時々片親に会いにいったりという習慣も少ないらしい。
そして子供のほとんどは母親を選ぶ。
寂しくなった父親は決められた親権を無視し、黙って自分の子を連れ去ることが多いため総体的に誘拐事件の数は増えるようだ。
そのためアメリカの子供は一人で自由に行動することは基本的に限られているらしい。公園だろうがスーパーだろうが親の監視下の近くにいることが当たり前であり、「はじめてのおつかい」なんてものはあり得ないと言われていた。
マイクの弟は少し目を離した隙に誘拐されたのは日本では大袈裟に見えるが、そういう背景を含むと当時の影響も象徴したシーンになるのだろう。
またマイクがアビーの親権を譲ろうとしたことでアニマトロニクスに襲われる流れに変わっていくが、彼らの中の誰かは犯人に片親から誘拐された子供の怨念も持っていたということなのかもしれない。
そして考察されていた裏設定の誘拐された子供には5人とは異なる、6人目の誘拐された子供の存在も一つ謎として上がっている。
映画ではそれも明かされていたとしたら6人目はあの警察の女性だと思える。
彼女はそもそも犯人が父親であると言っていたが実際にはどうだったのか。片親から誘拐された形で父の元に来たのが彼女だったという線も考えられる。
次に誘拐理由として多いと言われるのが容疑者側の成熟から離れた幼児退行によるパートナー相手の目的、その次に臓器や人身売買などだ。
終盤に明らかになる犯行の真実を追っていくと、当時からの児童誘拐事件における背景全てを満遍なく反映させた形が映画版におけるアニマトロニクスの具現なのかもしれない。
誘拐した子供はバラバラにされて着ぐるみに入れられていたり、犯人自らは今だ霊になった子供と同じ目線でうさぎの中に入ったままでいる退行性、そして警察女性への疑い。
結局マイクの弟を攫った真相を初め、犯人の真意など大切なところもよくわからないまま終わったため、こうした作品の外堀から見たことでしかドラマに対しての結論はつかない。
終盤に犯人もお前らを生ませてやったということを強調して話していたため、事件背景を具現化させた存在という認識はそんなに外れてはいないかなと思う。
ゲーム再現していくシーンも畳みかけで行っていくのは良かったが、個人的には管理室で悪戦苦闘する場面とかもやってほしかったかな。スプラッターも控えめだったので結局ファン向けなのか一般層向けなのかこの辺は中途半端さも少し感じた。
元々80年代舞台のゲームだけあってメインに扱う事件性が古かったのもドラマが不評だった理由はあるだろう。
今や複雑に絡めたサスペンス作品が多いだけに今更児童誘拐事件について普通に捜査していくストーリーは見飽きているし強気すぎた。
世界観再現はおまけ程度で結局ファン寄りな映画だった。