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記者目線から「最悪の未来」を見据えて問える市民とメディアの成熟【映画「シビルウォーアメリカ最後の日」】
映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』は、近未来のアメリカを舞台に、政治的・社会的分裂が極限に達した結果として内戦が勃発した世界を描いたディストピア作品です。監督は『エクス・マキナ』や『28日後…』で知られるアレックス・ガーランドで、アメリカの崩壊をリアルかつ象徴的に表現しています。
あらすじとストーリー
物語の中心には、内戦状態のアメリカで現実を記録し続ける報道カメラマンのリー(キルスティン・ダンスト)とジェシー(ケイリー・スピーニー)がいます。政府は崩壊寸前で、大統領は任期を強引に延長し、FBIを解散させ、国民に空爆を指示するなど独裁的な行動を取ります。一方で各州は分裂し、武装勢力が乱立する中、カリフォルニア州とテキサス州の「西部勢力」が首都ワシントンD.C.に迫るという緊張感のある情勢が描かれます。映画は登場する勢力の善悪を明確にせず、観客に各自で判断を委ねています。
予見される「アメリカの末期」
作品は、社会の分断、報道機関の弱体化、権力の暴走、偏見や差別の蔓延などを通して、現代社会が抱える問題を増幅して描写しています。これにより、「もしアメリカが崩壊したら」という仮定を観客に強烈に意識させます。ガーランド監督は、この作品をアメリカだけに限定せず、他の国々にも当てはまる普遍的な警告として制作したとされています
映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』が国内のディストピアを記者の視点で描いたことには、いくつかの利点や意義が考えられます。
1. リアルさと共感性の強調
報道記者という視点を採用することで、観客は中立的な立場から物語を観察できます。記者は現実世界でも混乱や戦争、分断を記録する存在として、事実を追いながらもその中に巻き込まれる姿がリアリティを与えます。日本人にとっては、内戦や国家分裂が身近な経験ではないため、この視点を通して異なる文化や社会情勢に共感しやすくなります。
2. 報道の役割への問いかけ
ガーランド監督はこの作品を通じて、報道機関の役割や真実を追求する記者の意義を再考させます。映画の中では、政府や武装勢力が混乱を煽る中で、記者が目撃する事実が唯一の「真実」として機能します。これは、偏った情報やフェイクニュースが蔓延する現代の社会において、真実を伝えることの重要性を強調しています。
3. 「絵空事ではない」と感じさせる普遍性
内戦や分裂といった極端な状況は、直接的にアメリカの歴史や現状に関連していますが、同時に他の国々にも潜在的に当てはまる普遍的なテーマを扱っています。日本では国内紛争の経験が少ないため、こうしたディストピアの想像は新鮮である一方、自由や民主主義が揺らぐ可能性を想像することで、国際的な視点から自国の安全や制度について考えさせられるきっかけにもなります。
レビュー
パッケージとは少し裏腹に一貫した記者視点でアメリカの内戦模様が描かれるため、それに至る背景から終わりにかけて世界観の事情というのは見づらい部分もある。
複合的な理由で大統領支持が国内で一気に下がり国に帰属する利点がなくなったために州ごとで独立し連合した果ての姿がああいうことだったのだろう。
アメリカは南北戦争以後、政府が大陸全体を統治しているという機能や認識は薄く、元々独立していた州の連盟から成り立っているという独特な構造の問いからあのような未来予測のような作品が作られたと言われている。
作中ではドルはカナダドルに負けるほど大暴落して世界のリーダーからもおそらく大きく陥落し、連合のある兵士はネイティブアメリカン以外は全て虐殺し市民は従うか戦わざる得ない、国としてはボロボロの状態が描かれる。
公開当時は大統領選とも時期が被り、奇しくも「アメリカンファースト」を掲げる政策に国民は選択を取った。来年から分かりやすく新たにアメリカは舵を切ることになる果ての予測としてはタイムリーがすぎる作品に。
お前は何人だ?どの種類のアメリカ人だ?という会話がそこらで聞こえてくるアメリカになれば危機であるということも間接的に警告してくれている。アメリカ問わず世界の歴史で見ても国内への暴力の方が凶暴化させることも思い出させる。
もしこの国内の最悪の未来を現実的に想像するなら新大統領から4年後はたまたその先に、それらの政策の継承を否定する大統領が生まれたときかもしれない。その時に国内はどういう状態で市民は何をもって政治的同意と妥協をしているかが先回りして問われる作品でもあった。
また今作は記者を主人公に見せていく作品にしたのも良かったと思う。
確かに彼らのミクロなロードムービーにも視点が行き過ぎて肝心なところが分かりづらい欠点もあった。
ただ最悪の世界の果ての中でまだまだ停滞する権力や組織構造を超えた個人のジャーナリズムが主人公になるのは真っ当な感覚がメディアの中に生きている証拠にも思える。
それだけで日本人としては羨ましく思う。日本では未来の危機を予測する作品はおろか、個人が構造の常識を超えていく真っ当な大人に見せる主人公像の作品も見なくなった。昔はそうした新聞記者が主人公のドラマもよく作られたためなりたい職業が1位の時代もあったらしいが今では考えられない。
あるのは現代による個人の不満の共感とストレスを解消させるものばかりで余裕がない。そういう意味でマスメディアは終わったと言われる意見は自分も韓国やアメリカの作品をみるほど同意できてしまう。
作中ではそれに準ずるのも最後に亡くなった女性記者だけだろう。口調だけではドライだが戦場でも最悪を想定する慎重さは常にあり、中立を保ちながらも最後本能的に動ける人間も彼女だけだった。
思えば邦画でヒットした新聞記者も女性記者の話だったが、混沌とした場での本能的な個人の力は女性に見られてきているのかもしれない。
日本では評価もまばらだがこうした作品の根源的な問いを突き付ける映画メディアの在り方になじみが持てなくなってきている人も増えているのも見える。久しぶりに米国内にいる人の評価も気になる作品ではあった。