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固執でなく、広げる思考を

海外へ行ったことがない遠い昔、日本人に比べて欧米の人たちは何だか自由なイメージがあった。多分それは、当時の東京では多くの公園で芝生に立ち入ることもできないのに、欧米では芝生に寝そべって日向ぼっこする人たちの映像を見たり、あの当時(80年代、90年代)欧米で開発されたり、流行ったりするものは何だかカッコよく、クリエイティブに感じたからかな。

今、欧州に長年住んで、欧米の友人と長年付き合うほど、日本人より思考が「固まってる」人が多いのではないか?と思うことがある。ある意味、「自分軸」をがっちり持っている社会なので、自分軸の表れなのかとも思うが、自分の考えに執着してて他の人の意見を聞かないとか、周りが見えていないような感じ。

欧州で大学院に行った際も、討論の手法、論文の書き方等に違和感を感じ、よく中国人留学生の友人と話し合った。

彼ら(中国・韓国から来た学生)は、論文の主題から外に向かって作業を進めるのではなく、一見無関係な一連の観察から始め、文脈を徹底的に調査した後にのみ結論を導き出しました。これは、特定の議論から始め、論文の残りの部分でそれを事実で裏付けるという、米国で一般的な執筆スタイルとは対照的です。Google Translate

"Is Your Culture Holistic, Monochronic or Collectivist?", Workhuman, Darcy Jacobsen, October 11, 2024

私の気のせいだったわけじゃないようだ。私たちの思考構造と、欧米の思考構造はアプローチが違っている。もちろんそれは、欧米でも、日本でも個人差があることはわかる。ただ、文化的に何かあるとはわかっていても、うまく表現することは難しい。

これは驚くべきことではないかもしれない。西洋の哲学や宗教における伝統的な考え方の1つに、物事は環境から切り離して分析できる、というものがある。研究者はこれを「特定的(specific)」な思考と呼ぶ。

 それに対し、中国の宗教や哲学では伝統的に、相互依存性や関係性が重視されてきた。古代の中国人は「包括的(holistic)」な考え方を持ち、物事は複数の力が働く場のなかで起きると信じていた。たとえば「陰」と「陽」という言葉は、一見正反対のように見える力が相互依存関係にあることを表している。

HBR「西洋の考え方、東洋の考え方 その最も大きな違い」エリン・メイヤー, 2014.07.29

私が常々、「固まってる」って思っていたのは、この「特定的(specific)」な思考なのか?余りに一つ一つにこだわり過ぎて、全体を見ていない感じ。

企業内の仕事の仕方もそう。チームや部というより、自分がどんな仕事を任じられてて、成果を出すか、にだけこだわる。全体の一部としてどうというより、自分のjob descriptionに明記された仕事以外をしても評価されない。だから仕事がsilo/サイロ化する。欧米では、これらサイロをどう繋げて一つにするかが、企業での大きな課題であることが多い。

それに引き換え、日本人、アジア人的な「包括的(holistic)」な考え方は、「全体の中の自分」を考える。全体として、部として、会社として、社会にちゃんとしたサービスや製品を提供できているのか?を考える人が多いように思う。だからこそ、job descriptionがないことも多いし、あったとしてもそれに必ずしも沿った仕事だけをするわけではないような感じを受ける(それはそれで問題がある)。

自分軸から発して他人軸との調整をする社会と、他人軸から自分軸を探す社会。そういえば、私はよくこの感覚を比喩的に「私は、木を見つつ、森を考えるのが得意」と表現していたことを思い出す。

私は森全体を考えたいのに、数本の木の詳細なデータに固執する友人。私にとって思考は、自由に広げて遠くまで行って、全体を見つめる作業。友人にとっては、細分化して煮詰める作業。次回は、これを説明して、違いを前提として、話し合いを始めてみたいと思う。

ちなみに、下記の例にとても納得した。

前述の魚のアニメーションと写真撮影の研究について中国人たちと話し合った後で、参加者の1人がこう言った。「中国人は大きなものから小さいものへと考えますが、西洋人は小さなものから大きなものへと考えます。たとえば住所を書く時、中国人は省、都市名、地区、街区、番地の順に書きますが、西洋人はその逆に書きます。名前も同じで、中国人は名字を先に言いますが、西洋人は反対です。日付も、中国では年、月、日の順です」

HBR「西洋の考え方、東洋の考え方 その最も大きな違い」エリン・メイヤー, 2014.07.29

Image by Ashley Batz, Unsplash

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