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ポメラ日記98日目 詩人の目線はいずこ?
・谷川俊太郎「二十億光年の孤独」を手に取る
この前、近所の書店に立ち寄ると詩人の谷川俊太郎の追悼特集がやっていた。
作家が亡くなると本が売れるのは皮肉だけれど、事実としてある。
僕も以前、ネット書店のバックヤードに勤めていたことがあり、作家の訃報があったり、バンドのメンバーが解散したときには、その日のピッキングで普段は動いていなかった単行本やCDが次々と売れていくのを目にした。
SNSではファンの弔いのコメントもあるけれど、作家やアーティストにとって、一番の供養になるのは生前の作品に触れることだと思う。
そんなわけで何となく「二十億光年の孤独」を手に取った。
谷川さんを詩人として知ったのは、「ピーナッツ(SNOOPY)」の翻訳だった。もちろん国語の教科書にも載るくらいの国民的詩人だけれど、僕の最初の印象はどうしてもスヌーピーの翻訳をしていた人、なのだ。
僕がスヌーピーの本を読んでいたのは大学生の頃だった。構内に施設は色々あったけれど、授業が終わったらすぐにアルバイトの日々で、あんまり学生生活にいい思い出はない。
授業のコマとコマの間に空きがあるときは一人で図書館の休憩室に行って缶コーヒーを延々と傾けながら、ぼんやりとしていた。
周囲の学生は勉強したりしているわけだけど、どうもそんな気にもなれず、授業の準備はそっちのけで図書館で好きな本を読むのが愉しみだった。
大学の授業で知り合っただけの友人が時折やってきて、「何してんの?」と訊かれると「英語の勉強してる」と答える。「何読んでんの?」「ピーナッツ」。友人は呆れて帰って行くが、大学の図書館で読んだピーナッツはとても味があったし、谷川さんの訳はユーモアを僕に教えてくれた。それが大学生活の数少ない、いい思い出だった。
・「二十億光年の孤独」に触れて
詩人が書いた文章と小説家が書いた文章って、かなり扱い方が違うところがあるなと思う。
「二十億光年の孤独」のなかに、「世代」という文章がある。
谷川さんが、詩を書いていたときに感じたものを綴った、という前置きがあるのだけど、谷川さんは「漢字はだまっている カタカナはだまっていない」「漢字はだまっている ひらがなはだまっていない」と書いている。
「カタカナは幼く明るく叫びをあげる」「ひらがなはしとやかに囁きかける」
漢字、カタカナ、ひらがなで、同じ言葉を使っていても違う印象があるのだ、ということを気付かせるような詩になっている。
「世代」の最後の文章は、こんな風に締めくくられている。
──そこで僕は詩作をあきらめ
大論文を書こうと思う
「字於世代之問題」
「ジニオケルセダイノモンダイ」
「じにおけるせだいのもんだい」
言葉の発音としては同じ、意味も同じであるはずなのに、文字から受ける印象は違う。
小説家と詩人の差があるとしたら、言葉の「形」を見るか、「物語(文の流れや言葉の意味)」を見るかにあると思う。
最近は、井戸川射子さんのように詩人から小説家へ転身する作家も増えていて、何となくの感覚として、詩を書いているときの書き方を小説のなかに持ち込んでいるのかな、と感じる作品を見かけることがある。
作家も文章のなかでこの漢字を開くかどうか(「開く」→「ひらく」とするか)とかは、誰でも考えると思うけれど、もっと根本的なところで言葉に対して違う見方を、詩人は持っていると思う。デザイナーがやっていることに近いんじゃないか(というか、詩人の方が先なわけだけど)。
詩のタイトルが「世代」なのは、年代によって段々と「ひらがな」→「カタカナ」→「漢字」の割合が変わるからかなと思った。あるいは「次世代の問題」と掛けているのか(これはちょっと深読み)。
以前、紹介した「喫茶店文学傑作選」で、過去の丸善の風景を綴っていた「北園克衛」という詩人がいた。
何となくその風景の描写が柔らかい、というか、この年代の人っぽくない書き方かなと感じるところがあった。
気になって調べてみると、北園克衛(きたぞのかつえ)は、1902年(明治35年)~1978年(昭和53年)まで存命だったモダニズムの詩人で、当時、世界を席巻していた「コンクリート・ポエトリー」の流れを汲む作品を発表していた日本でも数少ない人物らしい。
nostos booksというサイトの記事に掲載されていた「単調な空間」の詩を読むと、言葉の「意味」ではなくて、まるで言葉の形を「積み木」のようにして遊んでいるように見える表現がある。
詩を書いていた友人も話していたことは、物語の内容以前に「言い方」や文章が「綺麗な形」に並んでいないと、頭の中に表現が入ってこない、と言っていたのを聞いた。
新しい作品を書こうというときには、どこか「他の人が持っていない視点」が文章のなかにないと、新しい表現は作れないのかもしれない。
・中原中也と牧野信一
もうひとつ別の話をすると、「喫茶店文学傑作選」には中原中也の話も載っていた。中原中也といえばサーカスの詩を僕は思い浮かべるのだけど、この話では、牧野信一という文学青年が自殺したときの回想を綴っていた。
牧野信一の生年と没年は、1896年(明治29年)~1936年(昭和11年)、作家生活を送っていた時期は約17年で、小田原の生家にて縊死している。
あまり国内で有名な作家とは呼べないかもしれないが、中原は、同人雑誌の集まりで、西銀座の「きゆぺる」という店の二階で、牧野と会ったときのことを話している。
同人の一座がざわついているところへ久留米絣を着てやってきた牧野信一は、「僕、邪魔はしないからねえ」と挨拶をして、席に着く前に酔っていたという。
進行係は依然大声を出していた。牧野さんの近くにいる四五人の者が、何か牧野さんに話していた。聞きながら、大きいガッテンガッテンを、アクセントを付けてやっていた。それが何だか気の毒で、私は何も云い出せなかった。その会合の終わり頃になって、私は名刺を出しただけであった。名刺を読むと、しきりにまたガッテンガッテンをしながら私の顔をみて、それからタモトに入れたのであった。
一座が口を出して欲しいときにさえ、牧野が引っ込んでしまうところを見て、中原は少し気の毒がっていた。
後日、同人の仲間で牧野を誘い出しに行くことになるのだけど、酒を断り、一階で寝ている子どもを気遣って、小声で話し合ったという。
中原中也は回想のなかでこう書いている。
みんなが何を話したか別段記憶しないが、ともあれみんな文学青年が先輩を詣でた式のことで、主人は間もなく退屈した。而(しか)も帰って欲しそうでもなかったので、何か話し出そうと思ったが、私は疲れてもいたので黙っていた。私の正面の壁に子供の小学校の霜降の服と、糊でビリビリの日覆をかけた小学帽とが掛かっていた。カヤリの煙がユラユラと壁に映って、十一時頃であり、そのうちまた出掛けそうな気配にもなったりして、時は刻々に過ぎつつあった。
その手クビは細かった。格別細い感じがした。其処に月光的な悲哀が漂っていた。牧野さんの作品には明るい風景が出て来るし、陽に透いた桜の葉のような色又赤い色があるが、その赤はうでた小海老の赤である。
中原中也が書いた「思い出す牧野信一」という文章は、1936年の文學界5月号に掲載された、文庫にしてたった5、6頁の内容なのだけれど、中原が人を見るときに何を見ていたかが、少し分かる文章になっている。
中原が牧野その人を見る目線は少しピントが合わない、というか、妙に遠いところから見ている感じがあり、そうかと思うと、牧野の部屋にあった子どもの服や帽子、カヤリ(蚊取り線香の器、蚊遣り)の煙、そのときの時刻に関しては、かなり正確に捉えている。
極めつけは最後の手首の描写で、人の手首なんかそんなに見るものかなあ、と僕なんかは思ってしまう。
中原中也の詩に、「夏」という詩がある。自分(「僕」)が死んだ日の朝について書かれたもので、自分でさえも他人を見ているかのように描き、周囲の風景をやけに冷静に、醒めた目で書かれてある。
ちょっと引用すると、
僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿紙のほか
なんにも載せないで、
毎日々々、いつまでもジツとしていた。
いや、そのほかにマッチと煙草と
吸取紙くらゐは載つかつてゐた。
いや、時とするとビールを持つてきて、
飲んでゐることもあった。
戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた。
風は岩にあたつて、
ひんやりしたのが
よく吹込んだ
思いなく、日なく月なく
時は過ぎ、
とある朝、僕は死んでゐた。
卓子に載つかつてゐたわづかの品は、
やがて女中によつて瞬く間に片附けられた
──さつぱりとした。さつぱりとした。
こういう詩なのだけれど、見えている視界が自分を客観的に見ている(自分の後ろにもうひとりいるかのような)視点で書かれている。
詩人が見ているものは、文字通り違う見方で世界を見ているのではないかと思う。
自分にしか見えないものの見方や感覚を文章に移し替えることができたら、それだけで一等いい文章になるのではないか。
問題は、自分だけのものの見方や感覚を持つのはそもそも稀だということ。
そして、特異なものの見方をつかまえることができたとして、文章として書き表せるかどうかはまったく別の技術になることだ。
谷川さんも中原も詩人だからそれができる。作家でこういう感覚を持ったまま書けるひとってどのくらいいるだろう。一握りなのは確かだと思う。
2024/12/14 15:38
kazuma
もの書きの余談:中原中也を知りたい方は、月子さんの『最果てにサーカス』というコミックがおすすめです。小林秀雄と長谷川泰子との有名な三角関係を描きつつ、文学をやってみたい、という作家志望の方には特にハマる作品です。
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