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芸術としてのサッカー論

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サッカーを"非"科学的視点から思考する
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#プロローグ

サッカーにおける日本独自の芸術性 Prologue.6

ここまで読んでいただいた方にはわかっていただけるかと思いますが、これからの日本サッカーに必要なのは、まず「芸術としてのサッカー」を血肉として理解することであり、その先に「サッカーにおける日本独自の芸術性」を見出し、そこから「補足するサイエンスを研究する」必要があります。日本人の芸術性というものは、本来世界に誇れるものです。これまでの歴史の中では、日本独自の感性は海外の人々を魅了し賞賛を得てきました。 サッカーでそれをすることは、不可能なのでしょうか?私はそうは思いません。こ

なぜサッカーにおいて「科学(サイエンス)」が正義になるのか Prologue.5

では、なぜこんなにもサッカーを「サイエンス」で語ることが正義とされてきているのでしょうか?その答えは一つです。 例えば監督が何かを決断するとします。その時のアートと、サイエンスはこうなります。 アート:「直感的にそう感じたから。なんとなく、あの選手を出せば間違いないと思った」 サイエンス:「過去のデータに基づくと、この選手は後半80分から出場させた時がもっとも得点につながるプレー(その定義はナンチャラカンチャラ)をしているため、ここで出場させるのは得策ではない。その根拠

サイエンスで勝とうとすればサイエンスだけで敗れる Prologue.4

サッカーというスポーツは、そもそも全てを「サイエンス」で説明できるのでしょうか?この『芸術としてのサッカー論』ではそこを追求していきます。 私はこのままだと、日本がサッカーをますます「陳腐なもの」にしてしまい兼ねないと危機感を持っています。それを防ぐには、2つのことを理解する必要があります。 1.サッカーとは「芸術(アート)」である 2.「科学(サイエンス)」はそれを補足するものである アートとは、言語・数値では説明できないものです。サッカーにおける「本質」は、この「

"WEB先行型"日本サッカー Prologue.3

■日本サッカーが踏んでいく段階さて、ここからは今日本サッカーがどのようなフェーズに入っているのか、そしてまたここからどのような段階を踏んでいくのかを書いていきたいと思います。 現状の日本サッカーの一言で表すと「WEB先行型サッカー」、そしてまた「WEB完結型サッカー」と言えます。 つまり、サッカーのサイエンスを語るのは、現場ではなく欧米の情報に敏感な「WEB上の人間」が先であり(WEB先行型サッカー)、それが現場で生かされることなくWEB上で語り合うのみ(WEB完結型サッ

ボールを使うことに固執するチームが結果を出せなくなる理由 Prologue.2

■欧米サッカーが踏んでいく段階これまでのサッカー界の流れをみると、日本人は欧米の表面上をコピーし続けることが予想されます。ということは、理論上これからの欧米サッカーの流れが予想できれば、日本サッカーの流れも予想が出来るということです。 世界のサッカーは前述したように、これからより深くサイエンス化が進んでいきます。そうなると、(サイエンス化という観点から見た場合)サッカーはどうなってしまうのでしょうか? ①選手に特徴がなくなる まず、今までのような「天才」や「ファンタジスタ

「サイエンス化」とは全ての国が同じ到達点に向かっている状態を指す Prologue.1

「サッカーを言語化する」 現在日本サッカー界で、頻繁に聞かれるようになったフレーズです。欧米諸国における現代サッカーでは、各国それぞれの方法論で、サッカーにおけるあらゆるプレーが「言語化」されており、これはスペインやオランダを中心に「常識」と捉えられている印象を受けます。 極端にいえば「360度何をしても良い」という極めて自由度の高い中で"共同作業"をするサッカーというスポーツにおいて、一つ一つの行動(プレー)を定義付け、それを言語化していく流れは当然のことではあります。