ボールを使うことに固執するチームが結果を出せなくなる理由 Prologue.2
■欧米サッカーが踏んでいく段階
これまでのサッカー界の流れをみると、日本人は欧米の表面上をコピーし続けることが予想されます。ということは、理論上これからの欧米サッカーの流れが予想できれば、日本サッカーの流れも予想が出来るということです。
世界のサッカーは前述したように、これからより深くサイエンス化が進んでいきます。そうなると、(サイエンス化という観点から見た場合)サッカーはどうなってしまうのでしょうか?
①選手に特徴がなくなる
まず、今までのような「天才」や「ファンタジスタ」と呼ばれるような選手は次期に現れなくなります。これまでのサッカーとは違い、徐々に戦術や理論には正解が現れ、それに適した選手が「育成」されることは間違いありません。すでに国によってある程度「似たような選手」が次々と誕生していることに気付いているのは私だけではないはずです。
サイエンスには「再現性」が求められます。勝つことによってお金を得ることが必要な(理由は後述します)これからのサッカーにとっては、サイエンスで説明できる選手以外は需要がなくなることは明らかです。これまで「育成」と呼ばれていたものの実際の成果はわからなかったわけですが、今後の明確なサイエンスの元育てられた選手たちは文字どおり「育成」となっていきます。本当の意味での「育成」が始まるのです。
②ボールを使わないTRが戻ってくる
現代の日本サッカーは、欧米に遅れを取りながら「サッカーはボールを使うスポーツだから、ボールを使わないTRをしても意味がない」という発想が少しずつ根付いてきました。
「ピアノの名手は練習でピアノの周りを走ったりはしない」ジョゼ・モウリーニョ
私が学生の選手だった頃は、「ボールを使わないTR」をすることは当たり前だったわけですが、今では「ボールを使わないTR」をするチーム・指導者は減ってきているかと思います。最近の欧米の全チームのTRを見たわけではないので仮説の範疇を脱することは出来ませんが、間違いなくボールを使わずにフィジカルTRをするチームは増えていると思われます。なぜか…?
それは「フィジカルTRの正解がわかってきているから」です。
つまりサイエンス化が進んでいるのです。数値化・言語化できるために、再現性があるのです。そもそも私が選手としても、また指導者としてもボールを使わないTRを拒否し続けてきた理由は「成果がわからないTRをする暇があったらサッカーの練習をしたい」からです。
しかし今は、何度でも言いますが「サイエンス化」しているため、フィジカルTRの成果や効果・必要性が数値化されています。やればやるほど成果が出るTRを行うのは当たり前であり、ここからよりフィジカル的な要素が増えていく現代サッカーにおいて、サイエンスに基づいたフィジカルTRは必須です。それは「ボールを使っている時点で人間の100%を引き出すことはできない」というサイエンスでは常識的な事実に基づくと、当然の流れなのかもしれません。
オランダ人のレイモンド・フェルハイエン氏が提唱している「サッカーのピリオダイゼーション理論」が日本で講習会が行われるようになってから、数年間が経ちました。私も学生時にすべての(当時)講習を受けたのですが、私たち日本人が理解をしておかなければならないことは「西洋からやってきたものはその時点でもう遅れている」という(耳が痛い)事実です。日本で定着するまでの時間(5〜10年前後)で、欧米は(同理論も含め)進化をしています。
私がこの理論を否定しているわけではないこと、この理論に対して言及できる身分ではないことを前提にして、欧米の理論をそのまま「正義」として受け入れてしまうことは危険だと思っています。同理論は、すべてのTRや概念を「サッカーの言葉」で表現(言語化)し、細かくプランニングされた、基本的にはボールを使ったTRでコンディショニングをしていきます。
先ほども言ったように、今後のサッカーの現場では、フィジカルTR(人間の身体能力を引き出す・向上させる)においての「正解」がわかってきていますので、より効率よくTRをするためには、ボールを使わずにサイエンスに則ったTRをするチーム・指導者は増えていくことが予想されます。「ボールを使う」ことに固執しているチームは徐々に結果が出せなくなります(そことの因果関係はわかりませんが、オランダがワールドップ出場を逃したことは周知の通りです)。
今後フィジカルTRの「正解」がコモディティ化し、育成の世界でも無料でアクセスが可能になった場合、トップ以外のカテゴリーでもボールを使わずにTRをするチームが増えていきます。日本で「走り込み」が非難されるのは、そこにサイエンスの要素がないことが原因であって、サイエンス、つまり成果が「数値化」される場合、日本でボールを使わずに走るという行為は、また数年後には常識になります。
ピアノ(音楽)は、サイエンスではなくアートですから、サッカーのような段階を踏んでいくとは思えませんが、「第二指の〇〇筋を鍛えることで、〇〇%指の動きが向上し、その結果これまでよりも高速な演目を演奏出来るようになる」とサイエンス化していった場合、「ピアノを使わずにピアノの練習をするピアニスト」が現れるでしょう。そうなると、前述したモウリーニョの天才的な比喩表現は、否定されることになります。
③若い監督・コーチが増える
サイエンス化が進んでいくに連れて、これまでは「経験」をすることでしか得られなかったものが「データ」として手に入るようになりました。ドイツのように若い監督が次々と現れ、彼らが「ラップトップ監督」と揶揄される所以はそこにあります。正解があればそこにアクセスできる人間(若く、テクノロジーを使いこなせ、サイエンスを利用できる人材)が重宝されるのは自然の流れですので、ここから若い監督や指導者が次々と頭角を表すことは間違いないでしょう。しかし、能力以外の「構造的制約」がある日本サッカーにおいては、それは例外になります。
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201802180000101.html
これはサッカー界だけでなく、どの世界にも例外はありません。
将棋の世界では、2月17日、東京都内で行われた朝日杯オープン戦準決勝で羽生善浩2冠(47歳)を、若干15歳の藤井聡太五段が破りました。次から次へと若手が頭角を表している将棋界について、以前羽生さんはこのように話していました。
「若い世代と顔を合わせることが増え、その時代の波をひしひしと感じる。現在の将棋のルールになって400年以上たつが、日々進歩しており、内容的にはここ2~3年で大きく変わり、過去の経験や実績が生かしにくくなっている」
将棋の世界でも同じ原理ですが、テクノロジーの進化によってサイエンス化されている将棋の世界では、「データ」が「経験」を補う時代がもう既に来ているということです。何か「構造的」に若い人間の台頭を抑えようとする組織は、ここからどんどん衰退していくことでしょう。だからこそ、日本は危ないのです。
■歴史は繰り返される
ここから何年、何十年現代の「テクノロジー化したサッカー」が進化していくのかはわかりませんが、サイエンスにはアートと違って限界が存在します。前述しましたが、これからのサッカー界は「正解のコモディティ化」が起きますので「正解を知っていること」の価値は低くなっていきます。理論上「強いチームは誰にでもつくれる」という状況まで達した場合、「強い」ということの価値は落ちていき、「それ以外の何か」が必要になってきます。そこまで達した時、もしくは誰かが今のサッカーに飽きた時、かつてのような「魅せる」プレーが幅を効かせることが予想されます。「今のサッカーは理屈ばかりでつまらない。サッカーはもっと面白くなければならない」という発言者が現れ「魅せるプレー」や「魅せるブランディング」をして結果を出す選手やクラブがフューチャーされるようになる時が必ずきます。
「最近は全てデータ化されている。スピード、睡眠時間、食生活、カラダの反応…全てが数字化され過ぎている。選手本人にはどうしようもできないことも多いのに、全てはこのデータによって判断される。ちょっと狂気じみていると感じているよ」ミヒャエル・バラック
"その時"に、日本サッカーは何をしているのか?が重要だと思うのです。世界に勝つには、世界のこれからを予想して、先回りをしなければなりません。
■感性 vs 理性
これまでの歴史を見ても、これからのサッカーで起こりえる「ある状況」が繰り返されてきました。つまり「感性」VS「理性」です。
理性に訴えるデッサンのほうが感覚に訴える色彩よりも高尚だとする「プッサン派(デッサン派)」に対して、「ルーべンス派(色彩派)」は自然に忠実な色彩は万人に対して魅力的であると主張しました。「ルーべンス派」は、理性的なデッサンは専門家にしか"受けない"と信じたのです。「理性」対「感性」、つまり「デッサン」対「色彩」の戦いの始まりです。『世界のエリートが身につける教養「西洋美術史」』木村泰司 より
これは17世紀末に起こったフランス美術史ですが、先述した通り歴史は必ず繰り返すので、今後サッカー界に限らずあらゆる分野で「感性」と「理性」という議論が巻き起るはずです。これからの世界では、全てのことにテクノロジーが深く関わっていく、つまり「サイエンス」となるので、この歴史上繰り返されてきた戦い(論争)は、今後ますます多岐の分野に渡って多発するはずです。
この戦いがその後どうなったかというと、感性に訴える「ルーベンス派」の勝利に終わったことは言うまでもありません。これからのサッカーはどうでしょうか?私はどの時代も、人の心を動かすのは感性だと思っています。サイエンスで短期的な結果を出しことは出来ますが、人の心を動かすことは出来ません。
・・・続く