サッカーにおける日本独自の芸術性 Prologue.6
ここまで読んでいただいた方にはわかっていただけるかと思いますが、これからの日本サッカーに必要なのは、まず「芸術としてのサッカー」を血肉として理解することであり、その先に「サッカーにおける日本独自の芸術性」を見出し、そこから「補足するサイエンスを研究する」必要があります。日本人の芸術性というものは、本来世界に誇れるものです。これまでの歴史の中では、日本独自の感性は海外の人々を魅了し賞賛を得てきました。
サッカーでそれをすることは、不可能なのでしょうか?私はそうは思いません。これからの日本人に必要なのは、サッカーにおけるアートを理解した監督です。それをサポートするサイエンスを理解したコーチは、これからの日本人でではたくさん出てきます。前述している通り、簡単にサイエンス(サッカーの正解)にアクセスすることが可能になるからです。しかしそれを表現できる、つまり伝えることができる監督(リーダー)がいなければ、言葉通り机上の空論になってしまいます。「心を動かせない/感情が動かない」サッカーに未来はありません。サッカーの本質は、言葉では説明しきれないのです。
■サイエンスを追いかければ追いかけるほど日本は世界に離される
長くなってしまいましたが、最後にまとめます。
私たち日本人が「言語化」という空気に支配され、これから「芸術としてのサッカー」を度外視して「科学としてのサッカー」のみを追い求めてしまうと、欧米や南米を超えることは絶対にないということ。そしてまた、サッカーの正解が現れた時に、さらに私たち日本人は世界で戦えなくなること。これらの問題に日本サッカーは今気付いていないことが、私が「サイエンスを追いかければ追いかけるほど日本は世界に離される」と主張する根拠です。
■なぜアルゼンチンなのか?
私はこのような想いを持って、アルゼンチンへ来ています。指導者を目指し始めた20歳前後の頃、アルゼンチン人監督マルセロ・ビエルサが行ったスピーチを聞いて、私は衝撃を受けました。
しかし、私が「アルゼンチンでサッカーを学びたい」と思った時、賛成する人は居ませんでした。アルゼンチンにはサッカーの理論もなければ、良い環境もない。指導者としてサッカーを学ぶのなら欧米がいい。アルゼンチンに精通した日本人や、アルゼンチン人でさえもこう言いました。
その時に、私はアルゼンチンに来ることを心に決めました。「サイエンスがないのならアートで結果を出しているに違いない」と思ったからです。これが私が「海外にサッカーを学びに行くのならアルゼンチン以外ありえない」と思った理由、そして今アルゼンチンにいる理由です。
アルゼンチンでサッカーを学び、なぜこんなにもアルゼンチン人監督が世界で活躍してるのか?なぜ世界最高の選手がこの国から生まれるのか?自分の仮説と照らし合わせていきたいと思っています。
■芸術としてのサッカー
私はアルゼンチンから「芸術としてのサッカー」を学び、それを日本人として日本サッカーに落とし込むことが、日本のサッカーに最も必要な要素になると確信しています。
近い将来日本人を代表する監督になり、サッカーを自分の心の底から出てくるもので表現できる人間になるためには、アルゼンチンで「言語化・数値化」出来ないサッカーを学び、教養を身につけ、日本を学び、人の心を動かせるスピーチや、感情表現が出来る人間にならなければならないと思っています。
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長くなりましたが、以上でプロローグは終わりとなります。
私は現在アルゼンチンのLa Plataという街に拠点を置き「Escuela Osvaldo Zubeldía」という監督養成学校に在籍しております。ここはアルゼンチン指導者協会名誉会長のファン・ラモン・ベロンさんが校長を務めている学校で、ラモンさんはお馴染みファン・セバスチャン・ベロンの実の父です。
私がこれまでサッカーを考える上で立ててきた仮説と、ここアルゼンチンで学ぶ「芸術としてのサッカー」を元に、これから『芸術としてのサッカー論』を追求していきたいと思います。
ぜひ、楽しんでください。
筆者:河内一馬 / Kazuma Kawauchi
1992年生まれ(25歳)サッカー監督。アルゼンチン在中。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍中。
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