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富士見市を歩く~①難波田城址

埼玉県富士見市に行ってきました。
東武東上線ふじみ野駅から、レンタサイクルを使って約30分
目的地は難波田城公園です。


難波田城公園・難波田城址概要

難波田城(なんばたじょう)は、中世に富士見市を本拠に活躍した難波田氏の城館跡で、昭和36年、埼玉県旧跡に指定されました。荒川低地の一角に築かれた平城で、規模は5ヘクタール以上と推定されています。難波田城公園は、敷地面積約17000平方メートルの歴史公園で、この貴重な文化遺産を保存し活用することを目的にその一部を整備し、平成12年にオープンしました。

『城跡ゾーン』
「城跡ゾーン」は、発掘調査の成果と古城図を基に、戦国時代の難波田城の曲輪や水堀、土塁が復原されています。水堀には花菖蒲や水蓮などの湿性植物が植栽されており、四季折々の景観が楽しめます。また、コイやメダカ、ドジョウなどの水棲動物が生息しています。

MAP

実際の難波田城は、この3倍ほどの敷地だったそうです。


曲輪1


曲輪1
 曲輪1は、城の中心部で、古絵図には「本城」と記されています。いわゆる本丸です。東西約70m、南北50mの規模がありました。
 難波城あとで最古の15世紀ごろの大形建物跡や、多くの遺物が地下1.5mの深さから発掘されました。その後、城が改築されるとともに盛り土されていきました。
 曲輪を囲っていた土塁の一部が園外に残っています。

奥の敷地も1の曲輪だったそうですが、現在は住宅になっております。


本城門


曲輪2


曲輪2
 曲輪1(本丸)の出入口前方にある曲輪です。ここは、出撃する城兵が待機する「馬出曲輪うまだしくるわ」と考えられます・
 馬出にはいろいろな形がありますが、難波田城は月馬出の一種で、独立した方形の曲輪です。周囲に土塁を巡らせ、外から中が見えないようにしていました。曲輪1との間には、幅広い内堀がありましたが、この公演では狭く復元しています。

ちょうどイチョウが見頃でした。
黄金色でとても綺麗ですね!


復元木橋

復元木橋
この木橋は平成8年(1996)の発掘調査で発見された木橋跡を復元したものです。曲輪2と曲輪3を突出させ、この部分に橋をかけて2つの曲輪を結んでいます。橋の幅は、曲輪3側が2.7mに対し、曲輪2側は1.8mと狭くなります。これは敵兵が攻め込みにくくするためと考えられます。

確かに橋の陰を見ると、手前(曲輪3側)から奥(曲輪2側)に行くにつれて狭くなっているのがわかりますね。
これを聞いた時はかなり興奮しました!


曲輪3


曲輪4


追手門

こちらが正門の場所であったと考えられています。
この手前に外濠があったそうなので、実際にはもっと広いですね。


食い違い小口


食い違い小口
 城は、敵の攻撃に対して守りやすく、攻めにくくするために、曲輪の配置、堀の大きさ・深さ、土塁の形などいろいろな工夫をしました。
 城や曲輪の出入口を「小口」といいますが、この「食い違い小口」もその工夫の一つです。
小口の左右、または一方の土塁を屈折させてクラン状の道路にし、敵が進みにくくしたものです。小口の形には、いくつかの種類があります。

これは攻めにくいでしょうねえ(;'∀')
食い違いの場所で狙い撃ちされたらひとたまりもないような気がします。
が、実際にこの難波田城で戦闘があった記録はないそうです。


水塚


水塚
 水塚(みずづか または みづか)は、たびたび洪水におそわれた荒川や利根川などの川沿いの低地に多く見られます。宅地全体または、その一部を盛り土して土蔵などを建てました。これを水塚といいます。洪水などの非常時の避難場所になりました。
 富士見市地域は、野方(台地)と里方(低地)の地域にわけられます。水塚の周囲には、スギやケヤキ、モチノキなどの樹木を植え、土蔵を風から守りました。
 この水塚は、かつてこの地に住んでいた農家が築いたものを保存しています。


その他の写真

水堀と土塁


「綺麗すぎる」と言われることもあるようですが、
当時を想像するにはこれくらいでちょうどいいと思います😊

アクセス

東武東上線 みずほ台駅・鶴瀬駅・ふじみ野駅よりバスまたは徒歩

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