食事への考察
以前、fantiaで書いたブログの再掲載。
家族団欒の苦痛
作中ではよく仲間達との食事シーンを描く。
が、実は我輩、家族と食卓を囲むというのが嫌いだった。
中高生時代。時折、時間がズレて一人で飯を食うことが出来る日がたまらなく嬉しかった。毎日こんなのだったら最高なのになぁ、とあの頃は考えていたもの。
ただ我輩は良い子なので、「一緒に飯を食べたくない」とは言えず、「なんで俺はこんなにこの人たちと飯を食うのが嫌なのだろう?」と不思議に思いながらも、旨いはずの飯を旨いとも思えず食べていた。
大人になり考えを深めていくと、何故、家族の象徴である一家団欒の食卓を苦手とするのか、我輩の嫌悪感の根幹が解明された。
家族が揃って食事をするということは、家族の中で受け継がれている「物語」を再生産する儀式だったのだ。
我輩は我輩の家族で脈々と受け継がれている「物語」が好きではなく、その再確認の儀式である「皆が顔を合わせる食事」に無意識下で忌避感を覚えていたのだ。
食事によって再生産される「物語」
食事によって再生産される家族の「物語」とは何か。それは家族間のヒエラルキーであり、そのヒエラルキーの正当性であり、各員の家族内の役割であり、不平等であり、不自由だ。
たとえば、風呂からあがってきたオヤジが席につくと、母親が冷えたビールを出す。この昭和世代には牧歌的にうつるシーンも、物語由来の不自由、不平等の再生産にあたる。
このシーンを当然のものとして繰り返し、それを子供が「当然」と受け入れていくことで家族のヒエラルキー、役割、不自由、不平等は再生産されていくのだ。
食事において誰が「食事開始」の合図をだすか、誰の皿に一番多くの食料、あるいは良質の食料が盛られているか。(あるいは平等か)
席順は決まっているか。あるいは利便によって変わることもあるか。(たとえば鍋の時、子供たちが零すと危ないからといって、父親の席と移り変わることは可とされるのか)
誰が一番最初に席につき、誰が最後まで給仕を続けているのか。
食料という家族のリソースの再配分にあたる食事風景にこそ、その家族が無意識のうちに受け継ぎ、日々のあらゆるシーンにおいて再生産し強化をはかる「物語」が凝縮されている。
他家の物語
他の家族と暮らす時、一番「ぎょ!」とするのは食事風景においてだろう。
少年期、友人の家に泊まりにいった際、友人の姉が父親に対し「飲み物とって」と冷蔵庫をあけさせ物を取らせたことがあった。
父親の席が彼女より冷蔵庫に近かったからだが、これが我輩には衝撃だった。我輩の家庭では父親に物を取らせるなんてことは絶対の禁忌、許されることのない越権行為なのだ。
友人宅で見た家族風景は我輩には衝撃だった。
しかし考えてみると、その友人宅は両親と子共達の核家族であり、同居型ではなかった。
我輩の家庭は父方の祖母と父方の叔母が同居する同居型であり、父を象徴とする物語の保護者が二人もいて、母親もそこへ従っていた。
友人宅とは物語の再生力が違ったのだ。
ちなみに、我輩のオヤジが強権をふるう昭和の典型的オヤジかと言えばまぁそうなのだが、厳しいオヤジではなかった。
物をとってくれと頼めば取ってくれるだろうし、自分に一番良い物が回ってくればそれを子共に回すようなところもある。また鯱張ったことが嫌いで、いちいち礼をいわれたりするのを嫌う。家族内での物語の再確認を、本人はあまり好んでいない。もちろん、子共が無礼な態度をとったり、言葉遣いを間違えば大変厳しかったが。
父系を編む者
我輩の家庭において物語の再生産を指揮していたのは祖母であり、祖母が息子の父をたてることで食事風景をコントロールし、彼女が受け継いできた物語の再生産を強いてきた。オヤジは機嫌が悪いと扱いにくい野生動物みたいなもので、その威を借りる政治をしていたのはその母親だった。
こう書くと我輩の祖母が魔女のようであるが、これは日本の同居型家庭ならば珍しくない風景で、我輩の祖母が特別なわけではない。ただ若干、我輩の祖母が指揮する物語には不安定というか、無理筋や矛盾が生まれることがあり、これは彼女が離婚を経験し、父と叔母を女手一つで育てたためだと思われる。
そのために、我輩の家庭では基本は強父権縦型物語でありながら、祖母が時折父権を越権する。父親を息子として混同してしまうため、強父権物語内での役割カーストに矛盾がおきるのだ。
この瞬間、強父権の家庭で育った我輩にはとてつもなく居心地の悪い「越権行為」や「越権発言」がなされて、祖母へ敵意を向けてしまう。
幼少期、何故自分の中に恐ろしい父親を庇い、普段は自分に優しい祖母を責める心が生まれるのか不思議で仕方なかったが、根拠はこういうわけだった。
つまり。
「あんたが日頃強要してくる物語を、あんたが破ってどうすんだよ」「なにがしたいねん」というイラ立ちだったと思う。
面従腹背の食事風景
やや話はそれたが、我輩が何故、家族と飯を食うことを嫌うかに戻そう。
それは先述した通り、家族との一家団欒というものが家族内で引き継がれている「物語」の再生産の場、再生産マシーンであるから。
と言うことはつまり、我輩は我輩の家庭で日々強化されている無意識の「物語」というものを嫌っている、ということになる。
少なくとも、好いてはいないのだと思う。
ただこの思いは複雑で、我輩自身の価値感覚は強父権から生じている。これは、どうしようもなくそう思う。しかしながら、同時に、我輩は自分の「第一反応」である強父権的価値観を「不快」に思っている節もある。現状の男女平等、自由という価値観が台頭してきている社会に対し「恥ずかしい」と思っていることは否めない。
端的に言えば、「うちの家族の食事風景は恥ずかしくて外には見せたくない」と思っているようだ。どうも。 (自己分析した結果であり、自覚的意思としてそう思っているわけではない)
このように、我輩自身は染まっているけれど、他人には見せたくない我が身の恥部として捉えている物語、その再生産、再強化を我輩は嫌っている。
故に、家族と飯を食っていると緊張感から味がしない。
つまり。
物語の中にいながら物語への離反が心中にあり、それを見抜かれないか、戦々恐々としているために緊張して、物の味がよく分からないのだ。
恐らく、我輩の深層心理に起こっていることはこういうことだったと思う。
思い返せば。
我輩の目の前には常に祖母が座っていた。席順は決定的で、我輩の目の前に祖母がいることは変わることがなかった。
祖母は我輩が何を食べているかをよく見ていて、我輩が好きな物はまた出そう、嫌いなものは出さないようにしよう、と可愛がってくれた。
しかしその観察が我輩に、物語の守護者から「見張られている」という脅迫概念を育てたのだと思う。
「それ美味しい?」「それはなんで食べないの?」「前の方がよかった?」と聞かれる度に、何だかムシャクシャして叫びたくなった中学生時代を思い出す。
一度、「上野パンダじゃあるまいし、そんな見られて飯が食えるか!」と怒鳴ったことがあるが、あれは物語に押し込められる圧力を感じていて、その圧力をはね除けんとする抵抗だったのかもしれない。
我輩は祖母のことを嫌いではないが、彼女が受け継いで、彼女が再生産しようとする物語を拒絶している。
物語は恥部の始原
一度、母方の祖母(もう一人の祖母)に、「あんたは結婚しても家に女が二人もいるから嫁さんが来たがらんね」と言われてハッとしたことがある。ちなみに二人というのは祖母と叔母のことで、母は我輩が二十歳の頃に家を出ている。
母方の祖母に言われてハッとするまで、我輩は一切結婚願望というものを持っていなかった。むしろ結婚なんて最悪だと思っていた。ただ何がそれほど嫌なのか分からなかった。自分の両親が結婚という共同生活に失敗したから、他人と衣食住を共にする生活なんて無理だと思い込んでいるのだろう、と考えていた。
しかしよくよく考えてみると、そうではなかった。我輩は我輩の家庭、特に女筋によって受け継がれ再生産されている物語を恥じており、これを他人に絶対見せたくないと思っていたようなのだ。
自分の愛する女性、尊敬する異性をこの物語の中に巻き込みたくない。
巻き込めば彼女は離れていくだろうし、その過程でこの物語の加担者、システム的受益者である我輩も軽蔑される。
そう思っていたから、我輩は結婚だけはしたくないと思っていたようなのだ、どうも。
要約すると、結婚したらバレる、と怯えていたのだ。
一抹の希望?
この深層的恐怖を理解した今、我輩は結婚への恐怖が消えている。
と言って、今、結婚したいだとかは思わない。(相手もいないし)
ただいつか、我輩の上の世代が死に絶えた後に、我輩は自分が受け継いできた物語をなかったことにして、誰かとパートナーになれるのじゃないかと考えている。
もちろん、そうなれば十年先、二十年先という話になるから、我輩も四十、五十ということになる。結婚という選択はかなり難しいものとなっているだろう。
けれど、いいのだ。
今はゼロなのだから、将来の可能性がいくら低くても今よりはマシなのである。そういう「いつか誰かと一緒になれるかもしれない」と希望を持てることは、ずいぶん清々しいものだ。
こう話すと、「結婚しても同居しなければいい」と忠告されそうだが、そういう話でもない。
同居しないにしても、お互いの家族への紹介だとか、盆正月には顔を見せに帰らなければならないとか、その辺も我輩が受け継いでいる物語に強要されている価値観なのかもしれないけれど、逃げられなさが我輩にはある。
同時に、家族を切り捨てたいわけじゃない。家族への愛情も否応なしにある。
だから家族と絶縁という選択肢もない。
さらに同時に、彼女たち(父系の女性)への絶対的な絶望感もあって、この物語を変えること、壊すことは出来ないだろうと思っている。理屈ではなく本能的に「無理」と感じているのだ。
思えば、「雪子の国」においてハルタが母親を説得しようと試みるシーンなど、我輩のトラウマ、叶えられない夢、俺は無理だったけどお前頼むよという挑戦の疑似体験だったのかもしれない。
我輩にとって、何万回と繰り返し再強化された「物語」とは理屈ではなく信仰であり、感情であり、絶望なのだ。
だからいつか、物語再生産マシーンがなくなった時、我輩は他の物語と調和する可能性を手に入れる。
そういう可能性があるのだということで、今、我輩はかなり清々しい気持ちでいられる。