稲作を日本に伝えた人物とは
今回は、下記の記事の続きを書いてみたいと思います。
日本人の雲南起源説ですが、「人の渡来」と「文化の渡来」はセットだと考えるべきで、これは恐らく反論する人がほとんどいないはずです。
稲作伝来の時代背景
日本の稲作は、紀元前3世紀頃に中国から伝わってきたと思われます。紀元前3世紀と言うと、中国では秦が統一(紀元前221年)した時代です。
ちなみに、稲作の起源は湖南省・彭頭山遺跡と言われています。この遺跡が紀元前7,000~6,000年頃のものと言われていますので、日本の稲作開始からざっと6,000年以上も遡らなければなりません。歴史の重みたるや。
稲作は、中国の長江(揚子江)流域から直接伝わったと言われています。
紀元前3世紀に日本に伝来するということは、紀元前300年から紀元前201年までの100年間。この間に日本に来た中国人と考えると、可能性のある人物が絞られてきます。
米の調理方法
文化面で面白いのは、米の調理方法です。こちらの記事によると、稲作が伝来した日本の弥生時代には、米を炊いたようです。しかしながら、その後の古墳時代には、蒸して食べたと考えられているとのこと。
弥生時代(B.C.10世紀頃 - 3世紀頃 )…炊いたご飯を食べる
古墳時代(3世紀頃 - 7世紀頃 )…蒸したご飯も食べる?
弥生時代は、中国からの渡来系氏族が日本で一大勢力を誇っていたのかもしれませんね。
朝鮮半島経由説はどうなる?
稲作がもし朝鮮半島経由で伝来した場合、稲作の起源である華南→華北→朝鮮半島という伝来ルートになります。
華北の米の炊き方(湯立て法)は、弥生時代に日本には伝わっていません。今の日本式の炊き方は「姫飯法(または炊き干し法)」と言われ、この方法で米を炊く地域は、中国だと華南、華中と言った黄河以南の地域です。
華北では「湯立法」という炊き方であるため、華南から直接日本に稲作が伝わったと考えて良さそうです。朝鮮半島経由ではない。
稲作を伝えた人は誰なのか
こう考えてきますと、華南地域に住んでいた熊氏(楚の王族)か、雲南・保山(不韋県)を勢力地としていた呂不韋が、日本に稲作を伝えた可能性が高くなってきます。
紀元前3世紀頃に伝来したという時期的なタイミング。そして、当時の最先端の農業という知識集。以前から書いてきましたが、これはもう呂不韋=呂氏春秋以外には考えられないと思うのです。
『呂氏春秋』は十二紀・八覧・六論の26部からなる。そのうち十二紀は一年を春・夏・秋・冬の四季に分け、さらに各季を孟・仲・季に細分することに由来している。「紀」ごとの冒頭が月令すなわち歳時記であり, これがのちの『礼記』月令編、さらに農家月令書のもとになる。また六論中の「士容論」の第三編の「上農」には農業政策、第四編の「任地」には土地利用の原則、第五編の「弁士」には土地改良の原則,、第六編の「審時」には適時作業の原則が記述されており,、これらが総じてひとつの体系を形成している。「呂氏春秋』が中国農書の権輿とされる所以である。
「農書の地理学的研究序説」有薗正一郎氏著より
呂不韋についての考察は下記の記事もご覧ください。
結論
日本人の雲南起源説を裏付ける確固たるエビデンスはありません。また、日本人という定義をする上では、呂不韋の渡来時期よりもっと前から、中国から日本に渡来していたと考えるべきでしょう。
そう考えると、呂不韋が航路開拓したわけではなく、もっと前から雲南~日本ルートが開通していたと見て良いと思います。呂不韋が本格的に日本へ商圏を広げたきっかけが呂氏春秋であったと思いますし、日本各地で徐福が伝説になっている本当の理由は、徐福という人物よりも「呂氏春秋」というルネッサンス的な文化革命だったと思います。
史書において、紀元前3世紀に日本に渡航したらしい事跡として残っていて、日本にも伝説として残ってるも人物としては、徐福しかありません。そしてその時代の文化的革命を引き起こすであろう知識集は、呂氏春秋なのです。