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愛をもって愛を制す。信じてきたものの答え合わせ。
誰しもが何時だって、自分なりの正義をもって生きていると思う。
私にも自分なりの正しい基準や、これだけはしない、というルールがあって、ある程度そのラインを守りながら生きている。
とはいえ、何が本当の正解かなんてわからない。
それなりに人を傷つけてきただろうし、自分自身も沢山傷ついてきた。
それと同時にかけがえのない幸せな時間もあったし、そう思える時間を共有できる人たちに出会えた事は幸運で、とても有難い事とも思う。
絶対的に補完できる人間関係などなく、どんなに信頼し合っていると思っても破綻してしまう事もあるし、少しずつ形を変えて良い関係を継続できる場合もある。
「その出来事が起こったから」これが正解、という判断は誰にもできない。
それでも誰しもが、誰かや自分の幸せの為に自分なりの正義を生きていて、時間という不可逆の流れの中で、逆らう事も許されず進み続けるのだ。
「間違っていたのかな」「あの時こうしていれば」
そんな思いを抱いてもどうにもならないから、其処にある事実のみを受け入れて、ひたすら前を向いて生きるしかない。
巻き戻せないからこそ尊い時間。思いの答え合わせ。
近頃、昔から自分が関わってきた人間関係についての答え合わせのような、そんな出来事が多く起こっている。
どういう事かというと、つまりは「すれ違った本当の意味の確認」だ。
私は今まで、自分なりに誠心誠意関わってきた人たちに、私自身がどう思われているのかなんて、ちゃんと考えた事はなかった。
いや、正確には考えないようにしていた。
私が好きだからといって、その相手が私を好きにならなければならないわけではないので、好かれているかどうかはともかく、私は私なりの好意をもって、尊敬の念をもって接してきた。
だが実のところ、嫌われているかもしれない事を確認するのが怖かっただけとも言える。
尊敬して好意を寄せる人間から嫌われていたら、それはとてもショックな事だから、本音の部分を知りたくなかったのだ。
お互いの本音を知るという行為はとても大事だが、その実とても勇気もいる事で、だから多くの場合、意思疎通がちゃんとできずに関係がすれ違うのだと思う。
実際私も、人間として好きだから深く関わるけど、距離感をしくじって、上手く意思疎通ができずにすれ違ってしまう事が屡々あった。
それこそ、ハリネズミのジレンマ的な。
もうホントに、心病むレベルで人間関係が不得意でした。
そんな経緯で疎遠になった、近しい関係者と話す機会がここのところ立て続けに、本当に立て続けにあり、そこでわかったのは意外な事実だった。
私は、「自分が好きだと思う人間」に好かれていたのだ。
今でも気にかけてくれている事も、一つ一つの行動の意味も、何故かまるでパズルのピースが綺麗にハマってくれるかのように、気持ちよく謎が解けていった。
例え疎遠になろうと、距離ができようとも、私が相手の事を嫌いになる事は100%ないと言い切れる。
例え嫌われていても私は好きなままで、これはある意味で私の正義だ。
だが実はそんな思いを抱いていた相手に好かれていて、時間を経てもなお、自分の事を大事に思ってくれていたという事実は、私の心を救うに足る出来事だった。
なんて嬉しい誤算なんでしょう。
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