3月の乱気流と、なぜ、いかにして
読んでいた本の中で、しばらく心の隅に居座っていた文章だ。
日高敏隆 『春の数えかた』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)
この本を読んで、私は普段の会話で「なぜ?」と「いかにして?」という問いかけを使い分けているだろうか、そしてそもそも、「なぜ?」と「いかにして?」は何が違うんだろう、と頭を巡らすことになった。
A「なぜ、年度末は忙しくなってしまうのか」
B「いかにして、年度末は忙しくなってしまうのか」
こう書きだしてみると、確かに若干ニュアンスが違うように思える。さらに読んでみたりなんかすると、どういうわけか眉毛の位置や口調もちょっと変わってしまう。
A(なぜ)の方は、Bよりもどこか感情的で、年度末の仕事の山にうずもれた当事者がひょっこり顔を出してぼやいているようなイメージがある。今ある大量の書類に背中を蹴られ、カレンダーに赤々と輝く締め切りに刺されまくっている。そんな人の眉間の皺が思い浮かぶ。
一方で、B(いかにして)の方は、どこか落ち着いた ― というよりも、締め切りから現実逃避した当事者が、冷めたコーヒーでも啜りながらつぶやいているような絵が頭に浮かぶ。去年の終わりまでは余裕しゃくしゃくだったのに。どこでとちったのか。天井を眺める遠い目がちらつく。
つまり、A(なぜ)とB(いかにして)の違いは、「問いかけ」と自分自身との距離が近いか遠いかにあるのではないか。そんな仮説にたどり着いた。
私は科学の分野に、そのうえ学術を極める世界にはいないのでその立場のことは分からないが、研究者のミッションは「問いかけ」に対して「答え」だけを出力することだけではないことは分かる。「問いかけ」から「答え」に至るまでの「道のり」も明らかにしないといけない。
むしろその「道のり」は「答え」と同じくらい重要で、誰かが開いたその道が、他の人が求めていた「答え」にたどり着いたり、思いかけず未知の「問いかけ」につながったりする。
「なぜ」だと当事者意識が強すぎて、「答え」ばかりを求めてしまい「道のり」開発がおろそかになってしまう。 “ある先生”は、そのこと危惧したのではないだろうか。
なお『春の数えかた』では、冒頭の文章の後に「最近では科学の世界でも why と問うても良いような世の中になってきた」という趣旨が続く。科学の世界が変わってきたから(上に立つ人間が変わってきたから、とも言う)かもしれないが、「なぜ」も「いかにして」も「問いかけ」に対するまなざしの熱意は同じはずだ。言い方でひとつであれこれ指摘する人が少なくなったのだろう。
それとこれは私の想像も入るが、研究者もずっと大学にいる人だけではなく、会社勤めの人が大学に入り直したり、ある程度年を取った人が学位を取ったりする例もある。そんなふうにして研究者のバックボーンが多様化したことで、「問いかけ」への距離感や「答え」にたどり着くまでのアプローチが多様化したのも関係している可能性はある。
気が付いたら3月も折り返し地点になり、会社近くに植えられている早咲きの桜は知らないうちに満開になっていた。
例年に変わらず年度末は乱気流のごとく、案件そのものや上司に同僚、お客様とガシガシにぶつかる季節になっている。気を抜くと自分がどこを飛行しているのか分からなくなることがあるが、何とか前を向いて、お客様から投げかけられた「問いかけ」に対して、私たちはどのような「道のり」を開いて「答え」を導きだしたかを紡ぐ日々が続いている。
夜の空気はまだまだひんやりしているけど、朝は時折温い風が頬を撫でるようになった。「なぜ」「いかにして」といろいろなものに向き合いながら、もうしばらく乱気流の中を泳いでいく。
春の山菜がもう去りつつあってぴえん 芳田