『ワンフレーズ』 19話 「喫茶店に子供」
玄関を出た。外は雨が降っていた。隣の家の格子を雨粒が伝って、植えてあった青白い紫陽花が、それを迎えるように、嫌がるように、ポタポタと染み込み、弾いている。僕は風呂上がりの頭がまだ生乾きだったので。ちょうどいいやと思った。
なんでだろう、今のリコと会うことに、僕は全然緊張していない。高校の頃だったら、連絡が来ただけで、なんとなくそわそわしていたはずなのに。
「ごめん急に、遅れた」
「ありがと」
リコは、とっても小さな赤い色の車に乗って迎えに来た。僕は別に、車種に詳しい人間ではないけれど、こんな形をした車を初めて見た。ヨウジが乗ったら、助手席側のタイヤがパンクするんじゃないかと思った。
「ごめん、後ろ乗ってもらってもいい?子供のこと見といて欲しいんだよね」
「わかった、いいよ」
僕は、玄関から車の間の、屋根の無いわずかな時間に頭を雨で濡らした。子供が乗っていることを一瞬にして忘れたように、車のドアをバンと閉めて乗り込んだ。後部座席には、チャイルドシートに大人しく座ったリコの子供がいた。
「昨日の夜、私の寝顔見たでしょ」
「え、気付いてたの?」
「ううん、ヨウジが言ってた、リョウのこと見せて帰ろうと思ったら二人とも寝てたからって」
「ヨウジから聞いたのか」
「同級生に寝顔見られるの、恥ずかしいよ」
「ごめんごめん」
チャイルドシートに幅を取られ、後部座席に座った僕の身体は、八分目位くらいから、車のドア側に乗り上げてしまっていた。運転席の真後ろに座った僕は、淡々と話しかけてくるリコの表情を見ることができなかった。バックミラー越しには、後ろをちらちら見るリコの目だけがあった。シートに座った自分の子どもの様子を気にかけているようだった。僕も、後付けのチャイルドシートに座って、僕と目線が同じくらいになったリコの子どものことを見てみた。急に車に乗って来た頭が濡れた僕のことを、まるでひとつも気にかけていないようだった。
「ここにしよ」
僕の家から車で十分くらい移動した後に、ぼろぼろの建物の脇に綺麗な壁が建て増しされた、ある喫茶店の駐車場に車を停めた。この喫茶店、よく覚えている。僕たちが中学生へ通う通学路の途中にある、当時からぼろぼろの喫茶店だ。登校の時間にはまだ朝早いから開いていなくて、放課後はお店の休憩時間で開いていない。僕たちは喫茶店になんて用がない歳頃だった、だから、お店が開いているところをほとんど見たことがない。そんな理由も相まって、お化け屋敷なんて 呼んでいたりもした。
「この喫茶店、まだやってたんだ」
「サカザキ君、覚えてる?この喫茶店の息子さんで、私たちと中学の同級生だった人、今はサカザキ君が店主をやってるの」
「いや、覚えてない」
「お店覚えてて覚えてないんだ」
「ごめん」
「入ろ、ごめんね、後ろ狭かったでしょ」
「ううん、大丈夫」
僕はそう言って後部座席のドアを開けた。チャイルドシートが僕を外へ弾き出した。シートの上からリコの子供が、なんの表情も無く僕を見下ろしていた。