【エッセイ・思い出綴り】 郷愁・昭和の伊那まち 〜 長野県伊那市①
(1)プロローグ
「イ、ナ、シ、ニ、シ、マ、チ、イ、ナ、べ、」
保育園に上がる前から、両親に何度となく、人に訊かれたら必ずそう答えるように言われて育った。遠っ走りをする子供が道に迷って自宅に帰れなくなった時に、自分の住所をすぐに答えられるように、と名前より先に住む家の住所を正しく、答えられるように教えられていたのだった。
僕が生まれ育ったのは、信州伊那の宿場町、住所は”長野県伊那市西町区伊那部”。中央アルプス駒ヶ岳の麓の河岸段丘の中程にある、宿場町通りの小さな町、坂の下にはまだ、石屋さん、鍛冶屋さん、少し前までワラジや草履を売っていた雑貨屋さんが、昭和30年代まで軒を並べていた。
まだ自転車にも乗れない5歳児は、お出かけする時はいつも必ず、愛用の 三輪車だった。子供(自分)が、遠ぱしりをするといっても、たかだか坂の下のお菓子屋さん「大澤屋」さんまでか、坂の途中の「まつみ」という ガム・小物屋さんくらいしか行くことができるお店はなかったのだけれど、今思えば、遊びに行ってもいいと追われていた場所は、家から半径500メートル程度の範囲内で、いつも、近所の年上の子供たちと一緒に、彼らに連れられてのことだった。
当時はまだ、「かっさらい」という子供を拉致する犯罪が起こっていた時代で、”悪い人に捕まって何処かに売られちゃうよ、”、というのが親が子供を叱る時の常套文句だった。金銭目当ての誘拐事件などは、お金持ちのいる都会ではあっても、地方の田舎では、ありえないことだった。
家のすぐ上には、戦後できた家庭裁判所があり、さらにその上に検察庁、税務署などの厳つい建物が並び、その間に、納豆屋さんと、代議士さんの大きな住宅があり、洋館建ての学校の先生の家では、ピアノ教室が開かれていた。瀟洒な住宅街とでも言いたいところだけれど、古道の奥には、明治時代からあるような大きな地主さんの家があって、その一つ屋根の大きな家を3つか4つに仕切った長屋もあった。
滅多に車などが通ることのない古い宿場道で、その道は長い間舗装されることもなく、雨が降ると、あちこちに大きな水溜りができた。茶色の泥水の大きな水溜まりには、信州の深い青い空が映り、鏡のように白い雲を映したその下に、深い深い別の世界があるように見えた。
水たまりの中に映り込んだ雲や空、周りの風景を、水溜りの中に吸い込まれるように、ずっと陽が傾いて見えなくなるまで、覗き込んでいるのが、大好きだった。
自宅は昭和初期に建てられた2階屋の文化住宅で、2階の横開きの広いテラス窓からは正面に南アルプス仙丈ヶ岳や東駒ヶ岳、鋸岳などが綺麗に望め、満月の日には、その山の間から大きなお月様が上がってきた。
音楽好きだった父は、その月の出に合わせて、ベートベンの月光の曲を 自作の電蓄から流していた。まだ78回転のSP版で、鉄のレコード針だった。
出廻り始めたばかりの白色の蛍光灯をパチンと消すと、満月に照らされた伊那谷が浮かび上がり、手前の山の高頭屋の横に広がった山頂の一本一本の木の姿すら見えるようだった。