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海辺or砂漠どちらをめざす?ー國分功一郎「無人島と砂漠」を買ってみた

今回は國分功一郎「無人島と砂漠 ジル・ドゥルーズ『無人島、その原因と理由』から出発して」(『批評空間』第3期第4号 2002年)という論考を読みました。この記事では20年前の古本を手に入れてまで読みたいと思った経緯と読んだ結果を書いていきたいと思います。

この論考はポスト構造主義を代表する哲学者ドゥルーズが学部生時代の1950年頃に書いた論文『無人島の原因と理由』を解説したものです。
國分功一郎は哲学者。著書に『ドゥルーズの哲学原理』などがあります。

経緯

まずは、なぜこの論考を読むことになったのかその経緯を紹介します。
前回、千葉雅也『現代思想入門』を読み、その本論の最後の部分に注目しました。改めて引用します。(前回より少し長めに引用しています。)

世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。
底なし沼のような奥行きではない別の深さがある。…
我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです。

『現代思想入門』講談社2022年 214P

あまり深く悩まず個別の謎に対処しようという文脈で書かれています。これを読んで、浅田彰の『構造と力』最終章最終節「砂漠へ」を連想しました。
千葉自身がデビュー作『動きすぎてはいけない』ですでに浅田の影響を認めていることことを知っていたので連想したのかもしれません。

いま走っているのが、いわば無数の小さな沼におおわれた湿地帯だとするなら、目指すべきはサラサラと砂が舞いおどる広大な砂漠だ!

『構造と力』勁草書房1983年 227P

二人は、私たちが今、湿地帯にいて真っ暗闇の沼に吸い込まれているというイメージを共有していると思います。ではどこに向かって脱出するか浅田は「砂漠」だと断言していますが、千葉の方ははっきりしません。千葉における目指すべき場所はどこなのか。またそれぞれの場所は何を意味するのか。この謎をつきとめようと思い立ちました。そう思ったのはなぜか。私にもよくわかりません。「だって謎を解きたいんだもん」としかいいようがありません。すみません。

調査

ではどうやって謎を解くか方針を考えるために調査をはじめます。
千葉雅也といえば私のイメージでは「海辺」
です。『動きすぎてはいけない』のエピローグのタイトルは「海辺の弁護士」でした。(ちなみに『動きすぎてはいけない』はドゥルーズ論です。)どこの「海辺」かというと文脈上は「無人島」の「海辺」です。他者と出会う場所は「無人島」の「海辺」で、そこに弁護士が一人立つイメージで締めくくられます。とても印象的なシーンです。ちなみに『現代思想入門』では他者のことを逸脱や差異と言い換えています。これらをあわせると「海辺」で生じる逸脱を弁護するというイメージになります
では謎の答えが「海辺」かどうかどうやって調べるか。

『構造と力』の「砂漠へ」をもう一度確認します。

いまは《クラインの壺からリゾームへ》というスローガンにすべてを託し…

230P

クラインの壺には穴が一つだけあって、真っ暗な沼(穴)にハマるイメージです。そうであればリゾームは「砂漠」に対応すると思います。だとすると、千葉の目指すべき場所も「砂漠」になるのかもしれません。ここまででわかったのは「砂漠」も(「無人島」の)「海辺」もドゥルーズの概念であるらしいということです。そうであれば、「砂漠」と「海辺」または「無人島」の概念をまとめて説明している研究があるかもしれません。もしこれがあれば手っ取り早く謎を解けると考えられます。

さっそくネットで検索します。なかなか良さそうな文献が見つからないのですが、「砂漠」「無人島」「ドゥルーズ」と入力したところで、國分功一郎「無人島と砂漠 ジル・ドゥルーズ『無人島、その原因と理由』から出発して」がヒット!ドンピシャなタイトル!クリティカルヒット!!
しかもこれが掲載されているのは浅田が編集委員をしている『批評空間』。いやー、もう勝利を確信しました。

いや待てよ。無人島と砂漠を比較している研究があるのであれば、ドゥルーズ関連書籍に何かヒントらしきものが書いてあるかも。そう思い数少ない蔵書を引っ張り出してきました。

まず『現代思想入門』の中に「砂漠」「無人島」の記述がないかパラパラと探してみました。しかし見つからない。(見落としているだけかも。こういう時は電子書籍が欲しい。)

次に『構造と力』に「無人島」をパラパラと探します。見つからない。(見落としているだけかも。)

逆に『動きすぎてはいけない』(Kindle版)に「砂漠」がないか検索するも見つからず

「無人島の原因と理由」(『無人島 1953-1968』前田英樹他訳 河出書房新社 2003年)に「砂漠」をパラパラ探すも見つからず

最後にドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』(Kindle版)で「砂漠」「無人島」を検索「砂漠」は多数ヒットし、「砂漠」のすぐ近くに「浜辺」の記述がいくつか見つけられたのですが、残念ながら私の力では「砂漠」との関係を読解できませんでした

これで私が持っている関連しそうな書籍は尽きました。

覚悟はできました。
「無人島と砂漠 ジル・ドゥルーズ『無人島、その原因と理由』から出発して」が掲載されている『批評空間』をポチりました。謎が解けることを祈りながら。

解読

2日後。届きました。批評空間。
2002年リリースの古本ですが、とても綺麗な状態でテンション上がりました。さっそく熟読します。ドゥルーズの「無人島の原因と理由」の國分による試訳もありました。この試訳は2002年に行われています。先に挙げた『無人島 1953-1968』前田英樹他訳のリリースは2003年です。
國分による試訳の冒頭です。

無人状態の無人島は一個の砂漠であるかもしれない。

『批評空間』第3期第4号 2002年 218P

えっ?「無人島」=「砂漠」?謎解けたんだけど。とりあえず國分の解説を読み進めます。

ここでは、désertという語が「島」と「大洋」の二つに対して用いられ、そこに「無人」と「砂漠」の意味が重ね合わされている。…その大洋がここでは砂漠に準えられている。我々は、「無人島」から始める思考と、「砂漠」から始める思考とを区別することができるはずだ。…しかも、この視点は、ノマディズムを単なるスローガンとしてではなく、理論的に考察する鍵を与える。おそらく「無人島」(Île déserte)の陥穽をうち砕くのは「砂漠」(désert)である。

同上 218P

では、國分の試訳の箇所が『無人島 1953-1968』前田英樹他訳ではどうなっているか急いで調べました。これの「砂漠」の記述を見落とした疑惑が強まったためです。

無人のその地は、不毛地でありうる。

『無人島 1953-1968』2003年 17P

「不毛地」とはdésertのことだったのですね。スッキリしました。「不毛地」=「砂漠」と想像できる人はたくさんいるでしょうが、私には無理だった。いやいや、それよりよく謎を解いた。自分を褒めてあげたい。

つまり私たちはdésertを目指せば良いのですね。

しかし新たな謎ができました。「無人島」も「砂漠」も「désert=大洋、無人、不毛地」で重なっていますが、しかし微妙な差異もあって、「無人島」の陥穽を「砂漠」がうち砕くとのこと。やっぱりこの二つの微細な違いを知りたくなります

そこで國分の論考「無人島と砂漠 ジル・ドゥルーズ『無人島、その原因と理由』から出発して」を改めて熟読しました。
感想を一言でいうと、「無人島と大洋と砂漠は前々回読んだ『存在論的、郵便的』の郵便空間(というか人間のOS)にそっくり」です。
ちなみにこれはドゥルーズが学部生の時に書いたもの。若くして凄すぎです。
たいへん面白いので、次回はこの紹介をしたいと思います

おわりに

千葉雅也は予言していました。フランス語は少ない語彙でいろんなことをいうとか、翻訳ものを読む時には言語の知識が役立つとか。その通りでした。うーん、語学も身につけたいけどハードルが高すぎるような…

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