自殺について(申し訳ない。長いです)

2008年に過労からうつ病になり、何とか救われたくて精神科への通院を始めた。うつ病が治るかどうかなどまるで考えていなかった。とにかく息をしているだけでもつらくて、わらにもすがる思いだった。病識は明白だった。生きているとつねに憂鬱で、身体は重く、つらいのだ。それがずっと続く(一日の中で変動がある)。この"ただひたすらにつらい気持ちが持続する"という状態は精神疾患と無縁なひとに理解してもらうのがとても難しいと、ぼくはいまだに思っている。いわゆる健常者でも、ひどく落ち込んだりして食事がとれなくなったり眠れなくなったり下痢することはあるが、それは続いて2,3日というところだろう。それのもっとハードな感じの致命的なテイストが、数か月、数年、場合によっては何十年、死ぬまで続く場合もある、というのが精神の病である。端的にいって、きつい。

ぼくの症状が改善するにはとにかく時間がかかったが、何しろ病気に罹るのも治っていくのも初めての経験だから、改善しているのか悪化しているのかその変化もよく分からず、判断がつかないことも多かった。基本的に混乱の日々で、当時都内で同居していた元妻は言うまでもなく、埼玉の実家で静かに暮らしていた両親にも大きな精神的負担をかけた。1日1日のなかにある細かな内面の変化ではなく、1か月や半年、1年という大きな単位で症状を見ていかなければいけないということを知るまでにはかなりの時間がかかった(おそらく主治医には説明を何度も受けていたと思うのだが、記憶に定着するまでに数年要した)。

夜遅く仕事から帰ってきても、朝早くに自分が寝ていたベッドの向こう側で延々と横たわっている夫の姿を、毎日見ざるを得なかった元妻のストレスは、計り知れないものがあっただろう。何しろ彼女は自分自身病気の後遺症と日々格闘しながら、休むことなく会社で働いていた。ぼくは医師に止められていたが家でよく酒を飲んでいて、それを疲労困憊して帰宅した元妻に見咎められ、ケンカになることも何度かあった。咎めるのは当然だろう。彼女はぼくの健康が悪化することを心配してくれていたのだ。今思い出すだけでも申し訳ない気持ちになるが、自分の犯した悪事を償うことはできない。彼女は今さらそんなことを思い出したくもないだろう。苦痛に満ちた過去だからだ。

2012年の夏に勤めていた会社を自己都合で退職した(会社は解雇をめぐる訴訟を恐れて会社都合にはしてくれなかったが、交渉するような気力は当時ゼロだった。人事担当者に言われるままに辞表を書いて提出した)。失業給付金や傷病手当金はもらったが銀行口座の残高は徐々に減っていき、同時にぼくの家庭にわずかにあった希望もどんどん減っていった。夫婦関係が確実に崩壊していくプロセスにあったのだが、ぼくは自分自身が置かれているそういった状況すらはっきりと掴めなかった。深く病むとはそういうことなのだと痛感したのは、妻と別居して1年くらい経ってからである。自己認識の不全感を、時間をおいて点検することで理解する、という思考のプロセスが2015年頃まで不断なく繰り返された。こういった思考が繰り返しできているだけでも、精神活動の明らかな改善が認められるのだが、基本的にドツボにハマっている状態なので、余力のある時にひたすら言語化、具体的には文章にしてまとめることしかできなかった。周囲が基本的に黙って見守ってくれていたのはありがたかった。ぼくが病んだことで離れていった友達はたぶんいない。

いずれにしても、元妻はしばしばぼくに実家に帰って過ごすよう勧めた。病んでいる夫と距離をとって平穏な時間と空間を保ちたかったのだろう。ぼくは2013年、うつ病の底にあって、今思えばその症状の変化には回復の予兆がはっきりとあったのだが、そういった自己認識は当時もつことができなかった。症状のプロセスについても、おのれがどういった状況だったかを追って自己分析し、認識するということがくりかえされたが、孤独でとくに希望が感じられる行為ではなかった。ただ淡々と自分の心のありようを振り返らずには、おのれを保てなかったというのが実情だろう。病んでいるので、自己認識をもつためには元気な時と比べ大きな労力と長い時間を要し、それはつねに遅延した。

症状の変化は深く重い憂鬱感から、かなり強く持続的な無力感(意欲の喪失状態)へとはっきり移行した。2013年はそのシフトが地獄のように辛かったので、重い体で東京の街に出れば死に場所を探した。当時の自分は高層ビルから飛び降りて死ぬのが一番確実そうに思えたので、ビルを見るたび自殺できないかと考えた。見るたびにそのビルのセキュリティの穴を探すような元気は無かったが、自分が用事で利用するビルに入ると、非常階段から階下を見て、「今度もう1回来たとき、ここから飛び降りられないか?」などとたびたび思った。

実家に帰ると近所の鉄道踏切に飛び込むタイミングを探した。絶望していたし、死に踏み切れないおのれへの羞恥も深かった。けっきょく、夕方から夜にかけて近所のコンビニに行って両親に隠れて酒を飲み、自分をごまかし続けた1年だった。死のう死のう死にたい死にたいと考えていて、地元の友人にもLINEで頻繁にそういったメッセージを送っていてひたすら迷惑をかけたが、自殺に踏み切れなかったし、自殺について悩み考えることで疲れ切ってしまった。

けっきょく翌年の夏からアルバイトを始め、現世に復帰する活動に入るのだが、この2013年の地獄のような経験があるので、ぼくはもう自殺したいと思うことが難しくなった。そちらの方向へ自分を切り替える舵が故障している感じだ。あとは、発病から13年が経ち、自殺したいと思うことがほとんど無くなってしまったのも大きい。死ぬことばかり考えるというのは程度問題ではあるが、あまりにその念に囚われてしまうと、病的であり治療の必要がある(治療が手遅れになるとたいてい自殺する)。しかしそういった領域からはずいぶん遠くまで来たものである。いろいろな人に迷惑をかけたし、かけ続けているし、病院にも通い続けているし、くすりも飲み続けているけれど、ここまで元気になってきて、自分自身の自殺について考えるのは、もううんざりなのである。もちろん死にたい気持ちになることはあるが、死ねない気がする。

ところで最近読んでいる北條民雄『いのちの初夜』は、ハンセン氏病を患い夭折した著者の経験が生かされた名短篇だが、そこで主人公が絶望して療養施設の庭の木で首を吊ろうとして失敗したあとに、同病の先輩から「そのうちインテリ青年、と言いますか、そういう人は定まってやり損いますね」と言われるシーンは心に刺さった。この作品で描かれる"業病”に絶望して療養所へ向かうくだりの混乱する心情と憂鬱感は本当に素晴らしくて、ぼくが精神病院へはじめて足を向けたときのあの感じを、著者は無駄なく簡潔に記している。よかったら読んでみてください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?