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諸法無我とおかげさま

 仏教の基本となる3つの教えを「三法印(さんぽういん)」と言います。平家物語の冒頭部分で有名な「諸行無常」はこのうちの一つで「この世に永遠に変わらないものなどない」という教えです。

 残り2つをご存知ですか?「諸法無我(しょほうむが)」と「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」です。涅槃寂静とは、欲望や執着などの煩悩がなく安らかな境地のことで、諸行無常と諸法無我の考えを理解して目指して行くべき場所を示しています。涅槃というのはサンスクリット語の「ニルヴァーナ」の音を訳した言葉で「火を吹き消した状態」を指すのだそうです。煩悩の火を吹き消し、悟りの境地に至ることを目指します。昔同じ名前のロックバンドがいましたね。

 今日は残りの1つである「諸法無我」について、私が考えたことも交えて書いてみたいと思います。

1.諸法無我とは

この世のあらゆる存在には実体や本質と呼べるもの(我)がなく、お互いに依存し合う関係性の中で成り立っている。

 諸法無我の意味を簡単にまとめるとこのようになります。「実体や本質と呼べるもの」のことを「我(が)」といい、仏教はこれを否定する所からスタートします。あらゆるものには我がないと理解し、それらへの執着を手放すことで、苦しみから解放されることを目指します。

 私は仏教の生きることの苦しみを減らすことをテーマにしているところが好きです。「最後の審判の日に天国に行けるように、善行を積んで神様にお祈りしましょう」と言われても正直ピンときませんが、「生きるのって苦しいよね。でも、こういう考え方をしたら心が静まって安らかになれるよ」と言ってもらえるのは何だか安心感があるのです。

 諸法無我の考え方によると、この世のあらゆるものには実体がなく、お互いに依存しあっているのだそうですが、皆さんはそのように感じられますか?「この世に単独で存在しているものは一つもない」と言い換えても良いと思います。

 皆さんは自分自身のことをどのような人間だと思いますか?「自分はこういう人間である」という自覚のことをアイデンティティと呼んだりしますが、どのようなアイデンティティをお持ちですか?私の場合は「男性であり、夫であり、父親であり、教師である」といったことから始まり、「真面目だ」「時間を守る方だ」「優しい」などと思っています。しかし、果たしてそれは真実でしょうか。

 「真面目だ」という部分を例にしてみましょう。私は職場で仕事をサボったりしないし、休職している今でさえ復職した後により良い仕事ができるように本を読んだりして勉強しています(体調にもよりますが)。これは世間一般的には真面目だと思います。しかし、家にいる時には家事の手を抜いたりします。数ヶ月前にもらった友達からのラインを返していません(ヤベェ返さなきゃ)。これは真面目でしょうか。すでに揺らいでいます。

 職場では真面目かもしれないけれども、家族や友人に対しては不真面目になることもある。皆さんにも経験がありませんか?「Aさんと一緒にいる時には明るくおしゃべりな私なのに、Bさんと一緒にいる時には緊張して言いたいことの半分も言えない」とか。

 確かな存在のように思える「私」さえも、時と場合によって変化しうるもので、実は実体はないのです。私の「父親だ」ということさえも、子供がいてくれるからこその役割であって、子供がいなければ父親としての私は存在しません。「男性だ」ということも、この世の中に「女性」が存在するからこそ言えることです。

 この世に「個」として単独で存在するものなど何もないのです。熱されれば気体になり、冷やされれば固体になる水のように、常に周りのものから影響を受けて依存しあって存在しているのです。「個の時代」と言われて久しい現代社会ですが、そもそもこの世に「個」というものは存在しないということを「諸法無我」は教えています。

2.「おかげさま」の気持ち

 諸法無我の教えは私にこの世の姿を非常に明快に示してくれたように思います。諸法無我であるならば、周りの人がいなければ私というものも存在しなくなります。周囲に女性がいなくなれば、私は男性でもない。子供がいなくなれば、私は父親ではない。妻がいなくなれば、私は夫ではない。全て周りの人がいてくれるからこそ与えられる役割でしかないのです。

 であるならば、人間は必ず誰かや何かに関わって助けられて生きているということになります。

 このことに感謝するための一言が「おかげさま」です。漢字では「お陰様」となりますが、「見えない所や知らない所(陰)で自分を助けてくださった力に感謝する」という気持ちを表現しています。

 SNSを見てください。「自分はこんなことを成し遂げたんだ!」「こんなにたくさんの物を持っている自分はすごいだろう!」と主張して止まない人々が溢れています。これを見てなんだか寂しい気持ちになるのは、そこに「おかげさま」の気持ちが感じられないからです。

 あなたがそれを成し遂げられたのは、誰かが知らないところで動いてくれたからではないのですか。たくさんの物やお金を持っていることは嬉しいだろうけども、それは本当にあなたのものですか。その物を得るまでにはたくさんの人が関わっているはずで、自分はたまたまそれを借りているだけです。この世に「自分のもの」は存在しないのです。お金を払えば自分のもの、というわけにはいきません。

 周りに誰も何も存在しないで、私がいることはありません。このnoteでさえも、運営してくださる人がいて、読んでくださるあなたがいて、初めて存在しているのです。いつも見えない何かに支えられて生きているのです。隠れて見えないところで支えられていることに「おかげさまです」と頭を垂れて感謝したいと思います。

 「自分ひとりで生きているんだ」「これは自分が一人でやったんだ」というのは思い上がりです。そう思い込み執着するところから苦しみが始まるのです。私は少なくとも生きているうちは苦しみをなるべく減らしたいので、諸法無我の教えに思いを馳せ、おかげさまですと感謝することを忘れずにいたいと思います。


ここまで読んでくださったあなた、ありがとう。おかげさまです。

またお会いしましょう。

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