過去とアメ玉
禅の言葉に莫妄想(まくもうぞう)という言葉があります。「頭であれこれくだらぬことを考えず、いまここにあることに専念しなさい」という意味だそうです。
この言葉を私に教えてくれた本に、こう書いてありました。
あめ玉をなめるように過ぎ去ったことを思い返して切なくなったり、つらくなったり。 ー「超訳 禅の言葉」リベラル文庫
アメ玉を口の中で転がすように、自分の感情に入り浸る人がいます。これまでの私もそうでしたし、今もたまにそうかもしれません。悲しかった過去をわざわざ思い出しては、そのときの感情に浸り、心を乱してしまいます。そういうとき、その人の心は「いまここ」にはありません。
ツラいことがあった。悲しかった。それでいい。悲しい感情を押し殺す必要も、過去を消す必要もない。人間だから、そういうものがふと蘇ってくる日もある。そういうときは、ただ流れゆく雲を眺めるようにじーっと見つめるのです。
「あぁ、あのときは悲しかったなぁ」
それだけを受け止めて、その感情が流れていくのをじーっと見つめる。
雲と一緒に自分も流れて行きはしないように、心は常に「いまここ」に置いておく。「あの過去があったから今の自分がある」とか思う必要もありません。そのときの自分はもう流れていってしまいました。ここにいるのは、今の自分。
川としては同じ川かもしれないけれど、流れている水は1秒前とは全く別物です。自分も常に変わり続けています。あのときの自分はもういないのです。「変わり続けるという形の安定」もあると思います。
過去というアメ玉は、なんだか不思議なおいしさがあるんですよね。人間は自分の見たい物を見たいようにしか見ません。純粋な過去など存在しなくて、蘇ってくるのは今の自分の欲求に沿うように味付けされた過去(に似た何か)なのでしょう。
それを口の中でコロコロと転がして、ああだったこうだったと思い返していれば何か自分に得があるのでしょう。「こんな傷を受けた自分はもう立ち直れない」と考えていれば、避けていられる現実があるのかもしれません。
繰り返しになりますが、人間なので何かの拍子にフッと記憶が蘇ることもあります。音や匂いがトリガーになって、良いことも悪いこともフラッシュバックすることがあるものです。ただ、その記憶に浸ったままでいると不健康なのかなということです。
アメ玉をコロコロするのではなく、流れていく雲をじーっと観察する気持ちで過去が過ぎ去るのを見つめる心持ちが大切かなと思った日でした。
ここまで読んでくださったあなた、ありがとう。またお会いしましょう。