15年変わらなかった僕が、たった1年で人生激変した「不都合な」出来事。
カズです。
僕は今ではネット起業してますが、独立する前は15年ほどサラリーマンをしていました。
当時の労働環境は、1日16時間勤務のサービス残業、休みも月1~2回なのに「手取り16万」の薄給。
今の時代だと完全なブラック企業に当てはまると思います。
でも当時は他に良い就職先も無く(バブル崩壊後の景気も悪い時期で、就職難民も出てたぐらいで)「働き先があるだけラッキー」という時代。
だから労働環境に疑問もあえて持たず、心を「無」にして黙々と働いていました。
逆にそこ(労働環境)について上司に文句でも言おうものなら「アイツは反抗的だ」とマイナス印象持たれたり今後の社内評価に傷がつく恐れもあったので、とにかく会社の言う通りに働くしかない状況だったんですね。
まさに会社の命令に絶対服従の「エリート社畜」でした。
もう仕事が嫌で辞めたかったけれど、急に辞めてしまうと収入がストップしてしまいます。
当時から両親を養っていた事もあり、毎月固まった給与も必要でした。
だから毎日心の中で会社のグチを言い続け、心ばかりのストレス発散をしながら黙々と働く日々が続いてました。
で、そんな生活を送る中「あること」をきっかけに価値観が変わり僕の人生が変化していきました。
その「あること」っていうのが「姉との離別」です。
僕の姉は数年前に持病が悪化し他界したのですが、それが僕の人生を「大きく変えたキッカケの一つ」になってます。
(家族のプライベートや深い部分にも触れていて、正直書く事をためらう内容もありましたが書いてます)
横断歩道の信号の点滅だけで発作が起きてしまう
姉は小学校3年生(10歳)の時に脳疾患をわずらってしまい、そこからずっと不自由な生活を送っていました。
病気の原因はテレビゲーム。
僕も一緒にいたのでハッキリ覚えてますが、当時、家で姉と「リンクの冒険」というゲームをしていたんですね。
「リンクの冒険」は、キャラクターが死ぬと画面が色んな光で点滅する演出があるのですが、僕がゲームオーバーになった時にその点滅画面を姉が見た途端、急に泡吹いて倒れたんです。
体もガタガタと痙攣し始めて、僕がや母が声をかけても「あー・・・うー・・・ぶぶぶ・・・」と言葉にならない声(?)を発していたので、母がすぐに119番に連絡。
そこからはまだ小学1年生だった当時の僕にはショックが大きくてあまり覚えてないのですが。
母いわく、救急車が到着後、迅速な処置もあり自宅から一番近い総合病院に運ばれたので1時間もしない内に痙攣も無くなり落ち着いたそうです。
ただ、後日MRI検査も行った結果、
「生まれつき脳神経と視神経が繋がる部位が非常に弱く、激しい光の点滅を見ると、また同じような発作、痙攣が突発的に起こってしまう」
という事でした。
要は「視神経に入る光が原因で起こる”てんかん”」で、車のウィンカーの光(チカチカしたやつ)や横断歩道の信号が赤に変わる前の点滅など、普通の人なら何ら問題ない程度の光の点滅でも、姉の場合それを一目見ただけで発作が急に起こる可能性があります。
ただ、点滅を見たからといって必ず発作が起きるわけでもなく、その時の光の点滅具合/昼か夜かの明るさの違い/姉の体調等で、発作の状態や頻度も変わります。
つまり「これこれこういう時だと発作が起きる、起きない」がわかってるものではないので、何がキッカケで発作が起こるかわからず、信号歩いている時や車通りの激しい場所で発作が起こるとその場で倒れる危険性もある。
それがケガにも繋がる/倒れた時に頭を打つ/人や自転車、車にぶつかって命に係わる場合もあり、副次的に事故に繋がってしまうわけです。
だから病気発症前後で姉の生活はガラリと変わりました。
完全に治療する方法もなく、対応策としては
・光(特に点滅するもの)を見ない
・不要不急の外出を控える
・光を遮断するものをつける(サングラスなど)
ぐらいでした。
日常生活を送る上で光を見ないって、相当ハードル高いですよね。
最善の対策としてはサングラスのように極力光を遮断できるものをかけることで、姉は病気発症からは常に真っ黒なサングラスをかけ暮らすようになります。
ただ姉も病気とは言え小学校の3年生の多感な時期に、制限のある暮らしを強いられる事にショックやストレスを感じていて、そのイライラが募るとしょっとした事で怒って両親に突っかかる事も多くなりました。
僕ともよくケンカするようになり、僕も小さかったので「なんでこんなに怒るの?姉ちゃんなんて嫌いだ!」と、仲も悪くなっていったんですね。
しかも病気をし出してからは「いじめ」も始まります。
これは、後でわかった事(姉が小学校を卒業するぐらいに、泣きながら両親に話していたのを聞いてしまった)ですが、病気が発覚後に、突然サングラスで学校に登校し出した姉は同級生からの「冷やかし(いじめ)」の対象になってしまったんです。
最初に「黒メガネお化け」というあだ名をつけられ、そこから端折られて「お化け」になり、姉が視界に入ったら「お化けが来たぞ~!逃げろ~」とクラスのリーダーを中心に教室全体で、からかい始めたそうです。
サングラスかけてるだけでも嫌で恥ずかしいのに、それをクラス中から冷やかされた時の姉のショックは相当大きかったようです。
姉が物事をハッキリ言う性格だったら、最初の段階で「やめて!」と言えたかもしれませんが、もともと積極的なタイプではありません。
だから嫌な気持ちを押し殺して無理やり笑顔や愛想笑いでやり過ごしてたそうで、本人は相当つらかったと思います。
(その行き場のない抑圧した感情を、僕や両親に向けて発散してたのかな、と今では思います)
小学生の時の「いじめ」って、大人から見ると「え?そんな事で?」と思うぐらい、ささいな内容に感じる時があります。
当時のクラスメイトも悪意なく、ちょっとからかっただけかもしれません。でも当の本人が「いじめ」と感じるなら「いじめ」です。
また先に言ったように、この症状は完全な治療法がなくて、少しずつ症状もひどくなっていったし、脳神経にも影響がある影響で高校生の時には「躁鬱(そううつ)」の傾向もみられるようになってきました。
なので高校生~から後は光を避ける生活もですが、精神科でもらった薬を飲みつつ躁鬱病とも付き合い、心身ともに症状を悪化させないようにするしかない状況でした。
10歳を機にテレビやゲームは禁止・ネオンなどの強い光はもってのほかなので、ほぼ毎日サングラスで外出。
一人で外歩いてて何かの拍子で、光を見て発作を起こし倒れることもあり、大抵はどこ行くにしても両親が付き添っていました。
常に制限がかかった生活をしないといけないし、それが原因でいじめや、躁鬱にもなっていったので、毎日が本当に辛かったと思います。
自由奔放な姉だった
で、そんな制限された生活をずっと続けないといけなかった反動からか、高校卒業後ぐらいから姉の行動がどんどん大胆になっていきます。
たとえば
・16歳の時に年ごまかしてエステの呼び込みバイトして月50万稼いだり
・18歳の時に1週間家に帰らないので、家族皆で心配してたら国際電話で「カンボジアにいる」ってかかってきたり(行きたいって言ってたけど、本当に行くとは思わなかった)
・カンボジアから日本に帰ってきて、空港に迎えにいったら「レゲエやってるの?」ってぐらいのファンキーなドレッドヘアになっていたり
・と、思ったら次の日美容室で丸坊主にしていたり
、、、などなど、今までの姉からすると予想がつかない行動をし始めたので僕も両親もハラハラしていた時期です。
行動制限がかかっているのに、なぜ海外に行けていたかというと、その頃、姉の病気を理解してくれる友人も少ないですが出来ていたからです。
その中の一人(Yさん)はNPO(非営利団体)に所属していて、着ぐるみを着て海外の貧困地域の子供たちにボランティアを行っている女性で、その繋がりで姉もアルバイトとして団体に所属。
Yさんと一緒にアジア圏を着ぐるみを着て巡るという事を続けていました。
他にも僕が知っているだけでもアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、スペイン、スコットランド、タイ、マレーシア等、色んな国に行ってて、ほぼ日本に居ない時期もあったぐらいです。
(いつの間にか自動車免許も取得してて、それはアメリカで取得したと言ってた)
と、まぁ高校時代までとは違い、かなり行動的になった姉だったのですが、それでも病気が完治したわけでも治ってきたわけでもありません。
とくに躁鬱病の程度が激しくなっていて、姉の行動は日に日に過激になっていきます。
・「病院で処方されている薬では効かない」と、自分で海外サイトで抗うつ薬を購入して大量に飲み意識不明になり病院に運ばれる。
・大阪県警にケンカを売って連行。警察者から電話があり、福岡から両親が迎えにいって警察に謝罪、こっぴどく叱られる。
・実家の屋根から頭から飛び降りようとして、近所の住民に通報される/実家の2階から頭から飛び降りようとして、家族皆で力づくで抑え込む。
など、突発的で周りも巻き込むような行動が多くなってきました。
本当、色んな意味で家族の心配をよそに好き勝手にいろんなことしてたんですが、そんな姉が口癖のように言ってたのが
『 いつどうなるかわからないんだから「今」やりたいことやらないと損!』
って言葉でした。
その頃の僕は「いろんな人に迷惑かけてる癖に都合の良いこと言ってんじゃねーよ!」と、正直思ってたのですが、良い悪いは別として自分の思いを速攻で行動に移す姉を、心のどこかで
「羨ましい」
そう感じていたのも事実でした。
好きなように生きる姉と違い、僕は会社を辞めたいけど”ふんぎり”がつかずに、心の中で会社のグチを言う事でごまかしていたので。
いや、羨ましさと同時に「嫉妬」に近い感情も感じていたと思います。
ドラマのような別れなんてなかった
そんな自由奔放な姉も持病が進行し、気をつけても突発的に発作を起こすようになってしまったため、僕も実家に戻り両親と一緒に姉をサポートしながらの生活が始まりました。
(当然、海外旅行どころか、ちょっとした外出も禁止。その頃の姉はすごく生気がなかったです)
・・・そしてそれから間もなく、急に別れが訪れます。
その日僕は会社に行く前に
「宅急便が届くから受け取っておいてー」
と、姉に頼んで家を出てそのまま会社で働いていたのですが、タバコ吸おうと休憩に行ったら僕の携帯に母親からの連絡が。
母は普通、僕に連絡なんてしてこないので「これは何かあったか」と思い母に電話したら
「M子(姉)が・・・」と震えた母親の声が飛び込んできて。
そこから会社を早退し、すぐに姉が安置されてる病院に駆けつけました。
病院に着くと両親と親戚が居て、医者に姉が眠ってる場所まで案内されたんですが本当、ただただ普通に眠ってるようにしか見えませんでした。
死因は「自〇」でした(出かけていた母が帰宅して発見しました)。
でも、朝まで普通に元気で特におかしいところもなかったんです。
だからなぜ自分で命を絶ったのか、僕には全く理解ができず、でも姉を見てたら涙がどんどん溢れて止まらなくなり。大号泣してしまって。
で、なぜかその時に頭の中で繰り返されてたのが
「宅急便が届くから受け取っておいてー」
って僕から姉に伝えてた一言でした。
家族との別れって、ベッドの横で最後に「ありがとう」と言って別れるような、ドラマでよく見る光景になるのかなって思ってたのですが、でも実際はドラマみたいに「ありがとう」を最後に伝えるとかなくて、姉と交わした何気ない一言が最後の言葉になってしまった。
人との別れって、ドラマみたいに別れの瞬間が用意されてるわけじゃなくて、一瞬で訪れるし最後の場面に立ち会うすらできない事もある。
言い方が悪いかもしれませんが「あっけない」ものなのかもしれない、そう強く感じました。
家族との別れなんて経験、しないに越したことは方はありません。
でもそれを経験したことで、本当、人の生き死になんて何がきっかけでどうなるか全然わからくて
「いなくなる時は、人ってあっけない程一瞬でいなくなるんだ」
って凄く実感させられた忘れられない一日になったんですね。
もう「自分の好きに生きる」と決めた
そこから暫くは、姉がいなくなったという実感が全然わかなかったんですが、49日が終わった頃から僕の頭の中で日に日にリピートされ続けるようになった言葉があります。
それが あの
『 いつどうなるかわからないんだから「今」やりたいことやらないと損!』
って言葉です。
姉は持病というハンデがありながらも、自分の思うままに行動してました。
もちろん辛そうな時もあったけど
基本、楽しそうに人生を生きてたんですよね。
今思うと、姉はどこかで「自分の人生は短い」とわかっていたんじゃないかな、と感じています。
だから周りの事よりも自分がしたい事を優先して実行していった。
それが正しいか正しくないかではなくて、生きている内に命を燃やそう、できることを全部しようと思った結果が、外国に行く事だったし、ドレッドヘアから坊主になったり・・・。
他人からすると、一見意味のない事かもしれないけど
「今この瞬間を全力で生き抜こう」
と、命を燃やして行動してたのかな、と思います。
いや、そうとしか思えないのです。
(周りからすると破天荒で支離滅裂な行動に見えたのかもしれませんが)
なんにしても自分のやりたいことを「ためらわず」に「すぐ」やっていたから、充実していたし楽しかったんだと思います。
逆に僕は、全然人生を楽しめてなかった。
仕事も家族を支えるという、すぐに辞められない理由があったにせよ、自分の言動や行動を振り返ってみてみると仕事をやめたいと思ってる割に
「グチばっかで実際に何も動いてなかった」
のですね。それどころか、行動してそれが失敗したらと思うと怖くて
「家族を言い訳にして現状を変えようとして来なかった」
わけです。体も元気で持病もアレルギーもないのに、環境のせいにして色んなことを仕方ないと諦めて死んだように生きる、そんな毎日になってた。
でも姉との離別がきっかけで、彼女の言葉を脳内でリピートしまくるようになり、そこから言い訳ばっかで行動しない自分から脱却して
「自分の人生は本当に1度きり。だったら好きなことを思いっきりやろう」
即行動しようと覚悟を決め始めたんですね。
そう決心してからは早くて、経済的自由を手にするために「何をすべきか?」そう考えてリサーチしまくり、その中の手段の一つとしてネットビジネス始めたら、、、。色々失敗はあったものの
そこからわずか「1年」で独立できました。
社畜の15年間ずっと変われなかったのに、ちょっと覚悟を決めて行動したら、たった1年で僕の人生は文字通り「激変」したわけです。
姉がああなってから気づくって遅すぎる、、と今でも思います。
でも、姉はこの経験を通して僕に「自分の好きな道で生きる事の楽しさ」と「大事さ」を教えてくれたのかな?とも今では思えます。
なにより僕の思いと貫いて生きていこうと思うキッカケになった
『 いつどうなるかわからないんだから「今」やりたいことやらないと損!』
この姉の残した言葉には感謝してもしきれません。
姉がいなかったら、あの言葉がなかったら今の僕はいなかったです。
そしてこの記事を書く事もなかっただろうし、今のように「あなた」にこの話を読んで頂く事もなかったでしょう。
何がきっかけでで誰と出会い、いつどうなるかなんてわからないです。
僕もこの世界(ブログ、アフィリエイト、情報発信)に来てからは「え?こんな凄い人とあっさり会えるの?」というご縁や出会いもたくさんいただいてます。
(でも「凄い人と会える」=「自分が凄い」では「ない」ので勘違いするとダメです)
だからこそ、僕は人と人との「ご縁」の大事さを余計に感じるようになりました。
なので、軽く聞こえるかもしれませんが、この記事を読んで頂いた『あなたとの「縁」』を僕は大切にしていきたいと本気で思っています。
そして、より「学び」や「気づき」になる、そんな情報発信をしていきたいと思ってます。
楽しみながら人生を変えていこう
姉のおかげで僕は価値観が大きく変わり、そこから人生も大きく動き出しました。そして今も動き続けています。
ただ、僕と同じように人生の「価値観」を変え、生き方を変えるには
「大きな、辛い経験しないといけないのか?」
そう思う人も出てくるかもしれません。でもそんな必要はないです。なぜなら
価値観・人生観って今の時代、簡単に変えることができるからです。
たとえば日本中を旅する、アジアやヨーロッパなど異文化に触れ地域の人と話したり現地の料理を食べたり、など
・嬉しい
・楽しい
・美味しい
・綺麗
・凄い
感情を動かすような体験をしてみる。
そうすると色んなモノの見方や考え方を自然と学ぶようになり、地頭が良くなって思考も深くなり、思考が増えた分人生の選択肢も増えていきます。
未知の世界に積極的に触れていくと、知識が増えつつ心も豊かにしながら人生観を変えていけるわけです。
しかも今は、LCCもあるので格安で世界中飛び回れる時代。
今の環境に不満がある、人生を変えていきたいなら、いつもと違う環境に飛び込んで色んなものを見て感じて味わってみてください。
そうした体験を積み重ねていくと今までの自分とは違う視点で物事を見れるし、人生がちょっとずつでも良い方向に変わってくるんじゃないかな、と思います。
もちろん僕も、いま以上に自分の
・やりたい事
・伝えたい事
・価値を広める事
に全力で取り組んでいこうと思います。
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