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読書感想文「吾妻鏡-鎌倉幕府「正史」の虚実」藪本 勝治 (著)

 歴史を叙述するとは、何なのだろうか。
 都合がいいのだ。頼朝にも、実朝にも、泰時にも。なぜか。後から作ったからだ。事実のパーツをつまみ食いして、下敷きとなる物語の体裁を借り、当てはめていくのだから、「だってマズイじゃーん。それじゃあ、正義の味方になんねーじゃん。ヒーローはカッコよくないとつまんねーんだよ」となる。
 事実より、俺たちのトップを見せつけるのが目的なのだ。歴史「的」に「どうだぁ!」と言うためのものなのだ。社史や業界史の類いだ。現在の社長につながる創業者の苦労譚、立身出世譚として、立派に見えて泣けてくるようでなくてはいけない。都合の悪いことは書かないし、辻褄が合わないようであれば、過去に素敵なエピソードやコメントを挿入しちゃう。現在の立場から。
 「正史」とは、「正史」と言っちゃう者のものだ。もう少し言うと編纂する側の主体に委ねられるのだ。だから、自由気ままな日記や金銭や船や荷物の出入りの帳簿とは違うのだ。あくまでも視点を持ったストーリーである。僕らはそのことをついつい忘れる。客観的に捨象されたり省略するのではなく、意図や意思を持って加除される「歴史」物語的「正史」があるのだ。
 歳をとるとは、実感として、過去を語る者がテキトーなことを言っている場面をリアルに経験していくことなので、過去の叙述のご都合の良さなんて「さもありなん」と言えるようになると言うことでもある。


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