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努力するという間違い

常識的に正しいと価値を置かれていることに対して、もしかしたら違うんじゃないの?と疑いを抱くところから知性が発達していくのだと思います。いつの世も、矛盾だらけの悲惨であることは歴史を紐解けばすぐにわかることで、何も2022年が殊更に大変だということはないと思います。大変だと思うのは大きな世界を長いスパンで見ていないからではないでしょうか?VUCA、先が見えない世界であることはいつの世でも同じことです。それがまるでいけないことのように扱うことで、不安といったネガティブな感情を増していないでしょうか?

鬱の人に、がんばれ!といってはいけないことはさすがに常識になってきていますが、昔は、叱咤激励は良いことだと思われていました。実直、勤勉、努力、みたいなことは多分、まだほとんどの場で価値があることとされているために、疑いを持って見る人は非常に少数派だと思います。努力することができないという気質を持っている私は小さい頃から、努力ができない自分に対して劣等感を持っていました。それは、学校で、努力することがいいことだと教えられていたからです。努力は何のためにあるのでしょうか?何か良いことを成し遂げるために必要なことでしょうか?辛くても歯を食いしばって、やるべきことを成し遂げることに価値があるというものでしょうか?

私は子供の頃に、一生懸命に努力することが良いことだと教えられて、努力をしてみましたが、その度に病気になったり怪我をして倒れていました。だから、これは自分にとっていいことではないということを感じていましたが、素直に大人の言うことを聞くことが価値があると教えられ、周りの人も喜び幸せになると思っていたために、従順な良い子でした。そのために、小さい時からずっと慢性的な頭痛、貧血、喘息もちでした。魂が息絶え絶えで死にかけていたのを体が訴えていたのではないでしょうか。

努力というのは、その人に向いてないこと、その時期ではないこと、を無理に推し進めることに価値をおいている、辛いことを我慢してやるというニュアンスを含みます。合理的に判断したら、それは無駄なエネルギーの浪費かもしれません。そこに価値を置くというのは、一種の美意識のように私には思えます。

そこには、何か良いことを成し遂げるには、苦しみがつきものだという大きな思い込みがあるのではないでしょうか?私の考えはこうです。苦しみとは、それが間違っているので軌道修正したら?という天からの優しい警告に過ぎない。だから、さっさと辞めて他のワクワク楽しいことをしたらいい。このことを、どれだけ何度強調しても、今までの癖から抜け出せない大人がいます。

でも、子供は違います。
無邪気に好きなこと楽しいことをやって幸せに笑っています。
それでいいのです。
それがいいのです。
Tuuliにはそんな子供がいっぱいいて、大人が教わっている、そんなところです。

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