(112) 自分軸で生きる
自分の気持ち・考え方・意見を押し殺し、周りに合わせて生きた方が”安全”であり”得”なのではないかと決断されている方々が多い。
このことは、私にとっては衝撃であり、息が一瞬つまるような悲しい思いになる。
それらは、その方々の幼少時の環境、親の教育、人間関係などからの”刷り込み”や”心の傷”などから学んだ”処世訓”なのだろう。「自分を押し殺した方が”安全”であり”得”である」という思い込みからであろうと考えられる。
私は仕事柄クライアントをはじめ様々な方々にお会いする。半世紀もの間、”心理臨床”の場にいると、仕事癖とでもいうのであろうか、そんな視点を持って人にお会いしてしまうことが多い。
目がよく動き、どこかしら目に力がないような気がする。表情は乏しく固い。伝わってくるエネルギーが低いように思う。一番辛いのは、”微笑む”ことがなく、あるにしても”不自然”と思われるほどどこかでブレーキが踏まれているような”笑み”で一瞬なのだ。”映像を早送”りで見るような錯覚を抱く。
私は未熟なのだろう。その人の持つ歴史の”重さ”、”傷み”を瞬時に共有してしまう。仕事以外なのなら、よせばいいのだ。しかし、区別することが出来ない。感じてしまうのだから仕方ないのだが、そんなことだから、もう人に会いたくないと思ってしまうことになる。
「他者の評価の目」に疲れてしまわれたのだ。自分で決め、「自分軸」で生きることで人の”批判”を浴びるくらいなら、それ以前から、人に言われる
ままにして”良し”としなければ、と決めておられるのだ。
「自己決定」をしないということになる。自分を抑圧するということなのだから、必ず”感情の安定”を差し出すことになり、”不安定”なままになるということだ。”怒り”もあると思われる。「他人軸」で生きる、ということになってしまう。こうなるには、先に書いたようにそんな”処世訓”の決断をしなければならない、その人の事情があった。それは、悲しい自分の力ではどうしようもない仕方のないことでもあったのだろうとは思う。しかし、これで今まで・これからも生きていってもいいのだろうか?と強い疑問と不安を感じてしまう。行き過ぎだろうか?
先に書いたように、心の傷などから学んだ処世訓はそれで本当に正しいのだろうか?そんな決断以外には出来なかったのだろうか?と私は心配し、出来ることなら考え直して”再決断”し生き直して欲しいと強く思う。
私がそれまでに思うのには、もちろん強い思い入れがある。”刷り込み”とは強いエネルギーをもって私たちを”思い込ませて”しまうのだ。「これでいいのか?」なんて考える”間”を与えることもなく押し込むことになる。
特に幼少期の躾・教育・その環境などは、子どもたちに与える影響は大きいもので、幼いこともあり”無抵抗”で受け入れるしかないことも大きな問題となることがある。そんな中での「他人軸」で生きるという”決断”。それが”安全”で”得”であるという思い込み。一生振り返ることなくそれが続くということ、このことの方が”無抵抗”で受け入れるしかないことも大きな問題となることがある。”不安定”・”不安”・”苦しみ”を生むことになる可能性は「自分軸」で生きるより、はるかに大きいと思うのだ。
米国科学アカデミーが生きるための必要な五つのライフスキルを研究紀要に載せている。
・感情的な安定
・自己決定
・コントロール
・楽観主義
・良心的であること
であるという。
なるほど、誰にとっても一度きりの人生、もちろん”病む”ことなく、他人の評価に疲れてしまわないで、自分を信じて心を軽くして、”安気”に「自分軸」で生きることが大切なのだと、私もつくづく思う。そんなことをいつも考えているから、その「自分軸」をどうやって鍛えたらいいのだろうかを考えていく。
(1)意識して、何でも自分で決めるようにする
(2)貢献して周りから感謝されたら、素直にそれを自身で評価する
(3)いつも新しいことを生活に取り入れる
(4)弱音を吐くことを大切にする
(5)気分転換を多様な形で取り入れる
(6)あらゆることを、はっきりさせる
(7)自分の意見を持つ
(8)自身と他人を尊重する
(9)何しろ充実した日々を過ごす
こんな提案となる。
よく見ると、米国科学アカデミーのライフスキルと同じ事の主張だ。誰が考えようと正しいことはいつも同じだということになる。
圧倒され病んでしまう方々は、決まってとてもいい人達だと周りから評価されている。そのような評価を受けることは、凄いことであり、その評価はそのままその人の価値である。しかし、その評価を頂いても、苦しくて、不安定で悲しくて傷んでいたのでは、決して嬉しくないのだ。一度きりの人生、唯一無二の私たちなのだ。誰に遠慮がいるものか、あなたの思うまま、あなたの「自分軸」でどうか生きて欲しい。
そうでなかったら、自分の人生楽しくないし、後悔してしまうのではないだろうか。たとえ周りから褒められ、いい人と言われようが「他人軸」で生きるなんて、”その人生”に自分で責任なんかとれないと思うのだ。