(93) 侑子 ー なごり
去年もそうだった。
侑子は、お堀端のベンチに腰を下ろし、梅の木を見上げた。可憐な花なのだが、由子にとっては本心からそう思えなかった。例年に比べて今年は春の訪れが遅いのだろうか、下の方は一杯に花をつけてはいるのだが、上の方にはまだいくらかつぼみを残している。侑子は春の花でありながら冬のなごりを残している梅の花を、いつも複雑な気持ちで眺めるのだった。冬眠から醒めたかのように、由子は梅の花が終わる頃元気を取り戻し、快活に動き回るようになるのだった。侑子は、勝手にそのことを日照時間の長短に関係があると決めつけていた。まるでそれは、春の訪れを自ら感じとり、新芽を吹く植物のようでもあったが、侑子の場合は少々事情は違った。
「明るいうちに帰るのって久しぶりだわ」
侑子は、社屋一階のホール一面に西陽が差し込んでいるのを見て、ほっとしてそう呟いた。決して退社が早いのではなく、日が長くなったに過ぎないのだが、侑子は何か得をしたような気分になり、軽い足取りで駅に向かった。春の夕暮れの、しっとりとした柔らかな空気が何よりも御馳走な気がした侑子は、寄り道をしてみたい気持ちになった。侑子はタクシーを拾うと、
「道玄坂へ」
と、短く告げ、懐かしそうなものを見るような目で車窓から西の空を見上げた。重々しい冬のそれとは違って、どことなく軽い色調の空は、侑子に安堵感を与えた。
「お客さん、道玄坂のどちらまで行きましょう?」
「どこでもいいんですけど・・・居酒屋【備前】ってわかりますか?」
「承知しました」
こんな早い時間にタクシーに乗り、目的地に居酒屋を告げている自分に気恥ずかしさを感じたのか、
「まだ運転手さんは仕事だというのに、居酒屋へなんて言うの、恥ずかしいわ・・・」
「お客さん大丈夫ですよ。よくこんな時間に若い方々を飲み会だというのでお送りしますから・・・。でも、いいですねぇ、今日は【備前】でデートですか?」
「だと、いいんですけど・・・」
運転手のフォローで、侑子はいくらか救われた気がした。
【備前】などと、上等な屋号がついてはいるものの、五人で満席というカウンターだけの居酒屋に過ぎない店であった。ただ、器はその屋号の通り上等な備前焼で統一され、酒は辛口吟醸、肴は全て江戸前とこだわっていた。
侑子は、学生時代からの馴染みで、ほっとした時行きたい店であった。
「おじさん、また梅なんだ」
「へい、らっしゃい。侑子ちゃんか、久しぶりじゃない。そうか、また春が来たか。毎年言うね、その言葉。おいら悩んじゃうよ、その気の乗らない梅なんだって言うのさ」
侑子の去年も言った毎度の台詞に、大将がそう言うと、侑子は笑顔を見せながら、
「でもね、この備前の一輪差しには梅の花が不思議と似合うわね」
そう言うと、
「今日は穴子の煮付けだけど、食うかい?」
侑子は、黙ったまま一輪差しをくるりと回し、何かを思い出したような悲しい目で梅の花を見つめた。
「いいかい、侑子ちゃん、以前から変だと思ったんだけど・・・何かい、梅の花に辛い思い出でもあるんじゃねぇの。無理にとは言わないけどさ、良かったら口に出して言っちまいな」
「まあねぇ」
侑子はそういうと、深い溜息をついた。
「おじさん、お酒冷やで、それと穴子ちょうだい」
「何でぇ何でぇ穴子っていうの聞こえてたんじゃねぇか。まったく参っちゃうよな。心配かけやがってよ」
「梅の季節って・・・胸が痛むのよね。私、栃木が田舎なのよね。高校受験の時も大学の時もね勉強してなくて、自分を受け入れてくれる学校なんてあるはずもないと、全然自信なくて不安だったの・・・。高校受験の時なんか、宇都宮へ向かう電車の中で不安から目が落ち着かないのよね。今にも泣き出しそうで、何とか落ち着こうと窓から外を見たの。一番最初に目に入ったのが・・・梅の花だった。大学受験の時もそうだった。市ヶ谷駅を降りて、足が震えたの・・・。でも行かなくちゃと思って震えながら歩いたわ。
逃げ出したいほどの不安で・・・その時目に入ったのもつぼみの梅の花だった・・・。この花を見ると・・・どうしてもその頃に引き戻されの・・・。胸が痛くて・・・背中が固くなって・・・心が凍ってしまうんじゃないかって不安になるの・・・」
侑子は、そう言うと俯き加減に涙ぐんだ。
「参ったなぁ、苦手だぜそういった話はよ。粋な台詞で決めるといいんだろうけど・・・ちょっと目が緩んでよ・・・」
「ごめんね、おじさん。変な話しちゃって・・・。もう大丈夫だからね。おじさん!おじさんったら、聞いてくれたの?冷や、それと穴子、穴子!」
侑子はカウンターの中を覗き込みながらそう言うと、
「穴子だったな、遅れちまってすまねぇ、おいらも歳取っちまったんだ。どうもいけねぇや!」
大将は首に巻いた手拭いで、目のあたりをさっと拭うと、
「嫌だぜ、この備長炭しけてやがんのか。こいつは目に悪ぃや。高ぇ金出してよ備長炭買って、これじゃ実際参るよな」
そう言って侑子に背を向けると、大将は穴子の大鍋のガス栓をひねった。
七輪の中には、まだ炭も入れてなかった。侑子は頬杖をつきながら優しい目で大将のちょっと滑稽なひとり芝居を眺めていた。
「おじさん、ありがとう」
「何言ってんだ。こちとら江戸っ子だぜ。女子供のメソメソ話につきあってられっかってんだ」
大将の強がりに、侑子はぷっと吹き出してしまった。味わい深い備前の角皿に、江戸前穴子の煮付けを器用に盛ると、大将はそれを侑子に差し出しながら、
「まぁ、何だよ、偉そうに言うけどよ、人生っちゅうもんはよ、色々あるもんよ。博打してよ大損こくことだってあらぁな。シュンとして、自己嫌悪っていうの、そんな洒落た言葉で表せねぇほど自分が嫌になってよ、いっそのこと死んじまおうかなんて考えたことも何度かあった。単純化も知んねぇけどよ、ちょっと入った呑み屋でよ、うめぇ酒呑んだら、あぁ、生きててよかったってなもんよ」
侑子は、涙が止まらなかった。
大粒の涙が、備前の角皿を濡らした。
「おじさん、私、嬉しいよ。こんなの初めて」
「女子供の時間じゃねぇぞ、さっさと帰れ帰れ」
春とはいえ冬のなごりか、昼間の暖かさからすると相当な温度差になる程の冷え込みであった。侑子は、ローファーのかかとでコツコツと舗道の敷石を打ちながら、ゆっくりとした足取りで夜空を見上げる冬のなごりを楽しんだ。例年なら侑子は桜の咲くこの季節、やり切れない思いで憂鬱な時を過ごすのだが、今日【備前】を訪ねたことで、何かが吹っ切れた気がした。洒落た言葉や台詞があったわけではなかったが、大将の見せた涙が何より侑子にとってはありがたかった。特に話したいと思ったわけではなかったし、何かを期待したのでもなかった。道玄坂を下ると、一段と人通りが多くなった。この一人ひとりが何かを思い、また何かを背負って懸命に生きている。大将のように、うまい酒に出会って生きててよかったと、私も思うことが出来るだろうかと、ふと侑子は思った。力が枯れないうちに、また【備前】へ来たらいいかと、侑子はそう思うのだった。
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