(65) 自己肯定感 ー part2 サバイバーから学ぶ
「自己肯定感」は人生を生きるための土台である。「自己肯定感」が十分でないと、自分を好きになれない。人前に出るのが躊躇われる。人が怖い。自分も人も好きになれない。人を信じられない。これが、「自己肯定感」が十分だと思えない青年たちの苦しみの“基”となっている。
どうしたら「自己肯定感」を高めることができるのだろうか?日々、愚考を重ね、あらゆる所から学び、あらゆる文献に目を通して来た。命懸けであるにもかかわらず、私の胸を打つ“合点する考え方”に出合うことができないままである。
「自分の肯定出来るところを見つけなさい」
“良い所探し”を提唱する人たちが、口を揃えてそう勧める。しかし、それはまるで現実的ではなく、青年たちの苦しみから遥かに遊離し過ぎている。人の苦しみをまるで理解していない言葉に出合うばかりだ。「肯定」できるところが無くて、簡単に作ることが出来ないから苦しんでいるのだ。これでは、台無しである。ますます、自身の“不幸”を恨むところから抜け出せない。
私は、この仕事を始めた三十四年前から、児童養護施設のスーパーバイザーを務めている。月に一度、その施設を訪問して先生方の子どもたちへの接し方のアドバイスをしている。その施設で生活する子どもたちは、一歳から十八歳の、親に事情があり育ててもらうことの出来ない子どもたちである。親からのネグレクトや虐待を受けた子どもたち、親の養育能力不足、精神病だとか離婚によるものである。親の自死もある。言うなら、子どもたちは様々な事情から施設で生活しているが、「サバイバー」であるのだ。「サバイバー」とは、事故や事件・災害に遭いながら生き延びた人、自死した人の周囲の遺された人、幼少時などに継続的な虐待を受けながら社会生活を送っている人などを指す。トラウマから“回復過程”にあるという含みを持っているのだが、傷つき、痛み、果たして再起出来るのだろうかと心配なケースが多々あるのだ。心に抱えた傷は、並大抵のものではなく、将来を絶望しても不思議ではないことが多い。
私は月一度ではあるが、この仕事は心が痛みながらも楽しみなのだ。重苦しい研究所を抜け出し、百五十キロあまりドライブして出掛けられることと、先生方や重い過去を背負いながらも健気に明るく生きようとしている子どもたちから、たくさんの元気を貰えるからなのだ。先生方は福祉のプロとして見事である。この仕事を選ばれていることに、ただただ頭が下がるのだ。私なら、間違いなく子どもたちの心の痛みに圧倒され、潰れてしまいそうだ。
その施設に、三歳と一歳の姉弟がいる。もう一年程この施設で生活している。彼らは今までも、そしてこれからも「ママ」と発することは絶対にないのだ。一生、「ママ」と言えないのだ。先生方が「ママ」であり「パパ」たち以上のお世話をされるが、ママ・パパのもとで生活する子どもたちに比べたら、愛着をはじめ様々な事でハンディを背負っている。そして、深い深い“心の傷”もである。
私が施設でスーパーバイズを終える頃、低学年の子どもたちが学校から帰って来る。大きな声がするから、すぐにわかる。
「ただいま~」
「元気な声だね。おかえり~」
子どもたちと先生方のやり取りである。私はそんな光景に出合い、涙がこぼれる。毎回そうである。私がそんな境遇にある子どもだとしたら、とても生きて行かれないと思うのだ。まして、健気にもあれ程元気な声など出せないに決まっていると思う。「不幸に生まれたこの自分と境遇」を恨んで生きるだろうと思う。
今から十年程前、この施設を卒園した高校生がいた。彼は母親が精神病で養育が難しいという理由から、子ども相談所から施設に預けられた。彼はきっと初めの頃、自身の境遇と母親の病を恨んだに違いない。絶望もしただろう。彼はある時から懸命に勉強に力を入れ、本当によく勉強し、見る見るうちに成績を上げた。「母の病を治したい」が、口癖で国立大学の医学部を目指した。国立大学の医学部入学は、並の努力では難しい。まして、施設でハンディを背負っての彼には、ただ事ではなかったはずだ。見事、彼はやり遂げた。彼は医者になり、昨年結婚もした。彼のようなケースばかりではないのだが、子どもたちは弱音を吐かない。
「健気にも、与えられた自分の境遇を受け入れるしかないからかも知れないが・・・受け入れ、この先に光が見えているわけでもなく、また、長い時間が必要であるのだが・・・今の自分をまるごと受け入れざるを得ない。そして、明日には生きようと自らを奮い立たせている」
この「健気さ」「一生懸命さ」が”明日への力”を生み出しているのだ。彼らを見ていると、幼いながらどのように自らの境遇を受け入れられるのか、私の観察や知恵などではとても追いつけない。大きなマイナスを背負い、それらを受け入れる力も否認する力も持てないほどの幼さなのだ。悲しさ・寂しさにただただ耐えながら・・・自分の力ではどうにもならないことを散々に味わっているだろう。そんな不幸を恨むことも出来ない幼さは、とても自らの境遇を受け入れるまでにはならない。とりあえず、今日を「健気」に「一生懸命」に生きること以外にないのだ。
学者の先生方が提唱する「自分の肯定出来るところを見つけなさい」彼らサバイバーたちは、そんな道すじでは決して回復しない。それが出来ないほどの境遇なのだ。「とりあえず、今日を「健気」に「一生懸命」に生きる」
この日々の繰り返しが、そして施設の先生方の温かい言葉掛けに支えられ、ほんの少しずつだが、「自分でいいのかもしれない。こうして生きて行く」
と思い始めていくのだ。
決して自分自身・境遇を受容など出来ないのだ。しかし、それが出来なくても「自己肯定」の境地は存在すると、彼らを見ていて確信する。「とりあえず、今日を「健気」に「一生懸命」に生きる」これが確実に「自己肯定」に繋がるのだ。私も、彼らから教わり、そう生きている。今日も、そして明日も。