(29) 加瀬野 洋二
「肩が凝るなぁ・・・。目がかすんできた・・・」
そう言えば三月からずっとnoteに書き続けている。”遺言”などと極端に力んで書き始めているものだから、その上、遺したいことが山程あり過ぎて休んでいられない。神経症の名残もあってなのか、休むことに抵抗がある。これが危ないのだ。しかし、生き生きしているところを見ると張り合いがある。
人に言ったことは今まで一度もないが、ずっと憧れていることがある。”酒に酔ってみたい”と、愚かにも憧れているのだ。強く、である。
「それなら呑めばいいじゃないか」
と、聞こえて来そうであるが、そうもいかない事情がある。”アルコール分解酵素”というものがどうも足りないらしく、すぐに顔が赤くなり、気持ち悪くなる。また、以前の仕事上の都合もあって、酒を呑む習慣もないまま残念なことに今日まで来てしまった。憧れているものだから、秘かに何度も試してみたものの全敗であった。分解酵素以外にも足りないところだらけでどうにもならない。だからというわけもあり、太田和彦さんの「ふらり旅 いい酒 いい肴」という番組が大好きだ。また、吉田類さんの「酒場放浪記」も欠かさない。あの、”さぁ、呑むぞ!呑み歩こう”という”心のゆとり”、”人生の楽しみ方”に強い憧れがある。”呑んで忘れよう”という構えが何とも素敵である。”呑んで楽しもう”はそれ以上に憧れる。
「この肴にはこの穏やかで平明な酒がよく合う。何とも言えない・・・」
などと、太田さんのように言ってみたいものだ。
「この酒で気持ちが悪くなるんです・・・」
など、洒落にもならない。粋ではないのだ。
近頃、年齢を感じ弱気しきりだ。
そんな私も三十数年前、”風”に憧れウィンドサーフィンを始めた。スポーツだけはどういう訳か万能なのだ。風を待ち、風に乗る。サーフィンが波を待つように、ウィンドサーフィンは風を待つことになる。同じ波乗りだが、動力が”波”と”風”で違いがある。サーフィンは海中で波待ちの途中で酔ってしまう。酒には酔えないのに、情けない。ウィンドサーフィンはただひたすら、ブローが入るのを陸で待つ。水面にさざ波が立ち始めたら近くブローが
入る前兆である。ワクワクしながら待つ。そのままさざ波程度で終わってしまうこともあるが、ブローが入りさぁ、出帆となる。”ゆっくりと陽なたで風を待つ”・・・その時間が欲しかった。”求める何かを待つ”あの緩んでいながら、どこか適度に張り詰めた気持ちとでも言うのだろうか、その両極での”揺れ”が好きである。端から見たら単に暇で遊んでいるに過ぎないだろう風景ではあるが、いやいや、そこにその人たちの求める、その人にしかわからない強い思いがあり、”構え”がある。前述のことで言うなら、”ただ酒呑みが自堕落に呑んでいるだけ”と映るかも知れないが、”何かに替えて、何かを埋める”そんなその人らしい思い入れがあって、そんな空気が大好きだ。
人は誰しも決して無駄なことはしないのである。するからには必ずそれなりの理由(わけ)があるものだ。ただ、自覚がいつもあるわけではないので説明することをしないだけなのだ。その理由(わけ)は浅く自覚があるものから、深く本人も気づかないものまで様々である。だから、無意識でもいいからしてしまうことを是非とも大切にしてもらいたい。出来るなら、そのなぜ”無意識でしてしまうのか”という理由(わけ)を知っていて欲しいと強く願っている。
兄が以前、私のことを評して、
「ある日、スッーとお前が消えていなくなるような気がずっとしていた」
と、言ったことがある。一緒に暮らしていたから兄にはそれがわかったのだろう。納得した。自分でも自覚があり、そのことを感じながら生きて来ていたから、それがよくわかった。そんな儚さが、確かに私にはある。それは、命の危うさ・儚さとは違ったものであり、なかなか表現することは容易ではない。言ってみるならば、外界を感じるセンサーらしきものが多くあり、同時に絶えず反応していると言えばいいのか・・・受信するアンテナの数が多い為、あらゆる周波数のものまで拾うとでも言えばいいのか・・・。そんな感じであり、それは決して良いことではなく私にとっては大きな負担でしかない。それに、いつも圧倒されながらも、よせばいいのに自動的にそれを瞬時に分析し関連付けてしまうのである。多くの受信した情報を分析・整理してしまうのは並大抵ではなく、辛く苦しい。それも私自身が意図していないから尚更である。これは決して能力だとかスキルなどではなく、また単なる感受性であるとも言えない。私自身にもわからないのだ。私にとってこれが大きな負担なんだろうと思う。だからそんなもの捨ててしまいたい、と多分強く思っている。しかし一方で、私はこんな自分が好きでもある。”捨ててしまいたい””そんなのが好きで大事に取っておきたい”の両極の間で揺れて揺れている。大きな矛盾なのだ。
私の、兄から指摘を受けた”儚さ”は、その”揺れ”そのものであり、”矛盾”から生じるものだと思っている。絶えず”消えて行け”、”風に同化してしまえ”が頭の中にある。同時に”消えないで居続けろ”、”在り続ける”もあり、面倒くさい奴なのだ。だからという背景もあってか、目に見えないでいずれ実感のみを残して消えて行ってしまう”風”に心惹かれ、シンパシーを感じている。憧れてしまう。”風のように”すっと目立つことなく、実感のみを残して生きていたいと強く願っている。「加瀬野 洋二」のペンネームは、そんな意味から「風のように」を充てたものだ。さすがにもう一つの憧れである
「酒尾 望」では様にならないからである。
(独り言)
初めて人に向けて自身の痛みを語った。書き終えて今、複雑な気持ちでいる。身近な人たちは私に儚い印象はさらさらないはずだ。全くないと思う。
それは、自身の私にもよくわからないが、”儚さ”を持ってしまっていることの反動から、きっと周りに対してその”儚さ”を隠していたいのだろうと推測している。だから、その真逆を生きようとしているに違いない。何しろ現実はエネルギッシュに動き回り、言いたいことを遠慮なく大声で言い、自分をまるで躊躇なくさらけ出し、”出る杭”のごとく生きている。”打たれて”ばかりの毎日でも、全然めげない。
本当は、自分でもよく自分がわからない。人は誰しもそんなものである。
ただ、そんな自分が大好きなのだ。
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