息子と桜の風と。
「まつ、桜の花もって帰れなかったんだぁ」
保育園からの帰りの自転車で、
息子が唐突に話し出す。
自転車には2人の息子を前と後ろに乗せ、ママチャリに乗るわたしの姿はいかにも母親に見えることだろう。
ガラス窓のお店の前を通り、ガラスに映った自分の姿を見ながらふとそんなことを思いながら走っていたので、
一瞬、長男まつりの言葉を飲み込めず、間があいた。
「桜の花、持って帰りたかったの?」
自転車を漕ぎながら聞き返すわたし。
「桜 ママに見せようって...
でも 桜いっぱい 落ちちゃって...
お花 いっぱい 持ったんだけど
おっこちゃったの」
その瞬間、春風がブワッと吹いたかと思ったら、すでに落ちた桜の花ビラがまるで雪のように舞った。
まるで映画のようなワンシーンに、
そして一生懸命に紡がれたその言葉を聞いて
わたしの目からはハラリと涙が落ちた。
その前日。
同じく園からの帰路で、大きな公園の前を通った。毎年大きな桜の木が道路側に咲いていて、お迎えに行く頃には電灯に照らされぼんやりと白く光る桜が見れた。風が吹けば、ハラリハラリと桜の花びらが散った。
そんな桜を楽しみたくて。
自転車でゆっくりゆっくり通りながら、
長男のまつりと次男いおりに向かって話す。
「まつくん、いおくん。
ほら桜だよー!今年も綺麗だね〜
桜の花びらヒラヒラってすると雪みたい
ママ桜だーいすき!」
子どもにわかりやすい言葉で話すと、
なんとも単調になってしまうけれど、
その方が伝わることもあって、そう話した。
1歳になったばかりでまだ喃語しか話せないいおりは、名前を呼ばれたことはわかったのか
「あー うー あー」と返す。
最近、まるで大人と話してるのかとびっくりする時もあるほど、受け答えがしっかりしてきた3歳のまつりは、
「白くて きれいだねぇ、まつも桜すきー」
そんな会話をして家へ帰った。
その前の日の保育士さんからの日誌には、
「鬼ごっこでずっと走り回っていたまつりくん。さくらの花びらは舞ってとても綺麗でした。雪みたいと言ってましたよ」と書いてあって、
後から読んだわたしは親子だなぁ〜なんていう感想を思ったりなんてしていた。
帰りの自転車の中で、まつりが悲しそうに桜の花を持って帰れなかった話をしたのは、
わたしがだいすきと言った桜の花を、
お散歩の時にいっぱい持って帰ろうとしたけれど。
すでに散った花びらは、まつりの小さな手からはヒラヒラとこぼれ落ちてしまって持ち帰って来れなかったってことだったのだろうなと。
また、週末には花見を予定していたけど、
雨予報も出ていて、
「雨が降ったら桜が落ちちゃうね」
なんて会話を旦那のハヤテさんとしていた時もそばにまつりはいた。
もしかしたら、雨が降って無くなる前に持ってきて見せようとしてくれたのかもしれない。
あまりにも優しい告白に、心がぎゅうっとなって、愛しさと嬉しさとに涙が溢れてしまった。
「まつくん...ありがとう...
ママに桜見せようと思ってくれたのね。
ママすっごく嬉しいよ〜」
そう涙ぐみながら何度も ありがとう と
だいすき を伝えた。
まつりは自転車の後ろに乗っていたので、どんな顔をしていたのかは見えなかったけど、
きっと照れ臭そうなハニカミ顔をしていたと思う。
普段の送り迎えは仕事時間の関係で、旦那のハヤテさんが担当してくれることが多くて。この2日間はたまたまわたしがお迎えに行く日が重なっただけだった。
それなのに、ふと私が口にした言葉を覚えて、大切にしてくれたその気持ちが本当に嬉しかった。
日々、子育て向いていない自分の性格や子どもとの関わり合いを悩むことが多いわたしだけど、
子どもの成長は本当に嬉しいし、その成長の速さに親自身がついていけないくらいだ。
そして子どもの真っ直ぐな言葉や行動に、傷つくことや悩むこともやはり多いけれど、
反対に一瞬で心を愛しさや優しさで満タンにされてしまうことも沢山あって、
その都度「この子の母親になれてよかった」という気持ちに振り戻される。
その一つひとつの出来事は小さく、日常のちょっとしたことかもしれない。
この桜の思い出も重なっていくたくさんの思い出に、少しずつその色を褪せてさせてしまうかもしれない。だから、ちゃんと思い出せるように残しておこうと思ってnoteに記すことにした。
いつの日か、私がおばあちゃんになった時に、幸せな記憶として思い出せるように。
そして、子どもと向き合うことに挫けそうになってしまった時のお守りとして。
桜の花びらを添えて。