⓬瀬戸内寂聴さんのこと④新潮社はどれだけ儲けた?文庫累計販売部数
長い中断をしてしまいました。その間にも『J』というタイトルの瀬戸内さんをモデルにした暴露的な本が出ました。85歳の、尼僧で高名な小説家の先生と年下の男の性愛の話。あからさまな内容に驚きますが、瀬戸内さんは亡くなっても話題に事欠かないようです。この本の感想も、後で触れたいと思います。
さて、改めて再開します。
瀬戸内さんへの長い手紙を出して、もう一度寂庵に伺うアポイントを取るまでに、僕がしたことは、瀬戸内さんと新潮社の関係を検証することだった。まず注目したのは、新潮文庫における瀬戸内本の多さであった。こんなに沢山刊行している、しかも瀬戸内文学の代表作のほとんどが新潮社から出ていたということは、それだけ瀬戸内さんと新潮社の関係が深かったということだ。
瀬戸内さんの本格的な作家としてのデビューは、35歳の時、半同棲していた小田仁二郎氏に勧められて応募した「女子大生・曲愛玲」で新潮社同人雑誌賞を受賞たことに始まる。そして雑誌『新潮』に「花芯」を発表し、遂に大手出版社の文芸誌でデビューを飾ったのだが、この作品に使われていた「子宮」という言葉が当時の頭の固い文芸評論家たちを変に刺激したらしく、ポルノだと酷評されてしまうのだ。今、「花芯」を読んでみると繊細な描写の美しい小説としか思えないのだが、まさに隔世の感である。
ともあれ、「花芯」の酷評で、以後、文芸誌からの注文は5年間なく、瀬戸内さんは文壇から干されたということになっている。この話は瀬戸内さん自身が折に触れ何度も何度も語っているので、有名なエピソードになっている。
ちなみに、酷評されてあまりの悔しさに、瀬戸内さんは、『新潮』編集長で新潮社の影の天皇ともいわれる実力者、齋藤十一さんに面談を求め、反論を書かせてほしいと頼みこむのだが、齋藤さんから「小説家は自分の恥をかき散らして銭をもらう商売だ、商品にいちゃもんをつけられたからって一々泣きわめくようじゃ、やっていけるか。そんな甘ちゃんならさっさとのれんを下ろして顔洗って出直せ」と一喝されたという。
干されていた5年間、瀬戸内さんは少女小説や文芸誌以外のあらゆる雑誌の仕事で食いつなぎながら、ようやく新たな文学的テーマとぶつかる。
夫と娘を捨てて出奔することになった相手「涼太」との再会である。小田仁二郎氏との不倫ながら、ある意味おだやかで安定していた半同棲生活に、かつての年下の恋人が現れて、波乱に満ちた複雑な3者の関係が生じるのである。この状況を私小説として書かれたのが「夏の終わり」で、『新潮』に掲載された。ようやく文芸誌への再デビュー、そして「夏の終わり」で女流文学賞を受賞する。
さらに「夏の終わり」を発表して間もなく、齋藤十一さんに呼び出されて、突然、『週刊新潮』への連載小説を依頼される、というか命じられるのだ。とっさに京都は祇王寺の智照尼の波瀾万丈の人生を思いついて話すと、齋藤さんもそれで行こうということで始まったのが「女徳」であり、連載中から大評判になり、単行本もベストセラーになる。ここから瀬戸内さんは一躍流行作家として華々しい作家生活を歩むことになる。
つまり、作家・瀬戸内晴美の誕生に、新潮社、別けても齋藤十一さんの存在が大きく関わっている。そして瀬戸内さんの多様な作品群のなかでも、「夏の終わり」を始めとする文学的代表作はほぼ『新潮』で発表され、主要な作品は新潮社から刊行されてきたといっても過言ではない。
それが新潮文庫における多くの作品群となってきたわけだが、文庫に多数の作品があるということはロングセラーだからこそであり、当然ながら僕が気になったのは、逆に新潮社は瀬戸内さんでいったいどれだけ儲けてきたのか、ということだった。
数十年に及ぶことなので正確な数字は分からないが、とりあえず、文庫編集部の杉野さんに、瀬戸内さんの文庫作品の累計発行部数を調べてもらうよう依頼した。
数日後、杉野さんが「大変、大変、瀬戸内さんの累計部数、1000万部あったわよ」と驚きながらの報告があった。今でこそコミックなどでは数千万部の発行など珍しくないが、昭和の時代に、現役作家が文庫だけで1000万部というのは大変なことだった。僕も予想以上の数字に吃驚した。同時にそれだけ売れてきたということを出版部や文庫編集部など文芸部門として誰も気づいていなかったことにも、正直驚いた。
これだけ貢献してくれた作家に対して、新潮社がどう対応してきたかと言えば、寂しいものだったと言うしかない。瀬戸内さんが40~50代の脂の乗り切った流行作家の頃には新潮社の各部署の担当編集者たちに囲まれていたことだろうが、その頃のことを僕は知らない。
出版部に異動してきて何となく感じていたことなのだが、文芸の老舗出版社としての新潮社は、多くの大物作家を抱えている、というか関係している。文壇では、新潮社から本が出て初めて作家として一人前として認められる、などと言われていたようだし、悪く言えば、他社が育てて、新潮社が実りを刈り取るという言い方もあったようだ。戦前から戦後にかけて名を成した作家たち、特に大物作家が綺羅星のごとくいて、そういう作家たちの最後尾の世代に瀬戸内さんが存在していたように思う。はっきり言えば、瀬戸内さんより先輩の、気を遣わなければならない作家が沢山いて、瀬戸内さんは割を食っていたのではないかと思う。
実は文庫の杉野さんが嘆いていたのだが、「夏の終わり」の続編ともいうべき「黄金の鋲」が雑誌『新潮』に発表され、単行本も新潮社から刊行されたのにもかかわらず新潮文庫に収録されずに、角川文庫に入っているのだ。これなどは、当時の文庫担当者が、純文学作品なだけに「売れない」と思ったのか、大部数を刷る新潮文庫では採算が取れないと考えたのか。しかし自社にとって重要な作家の文学的重要作ならば、売れ行きは度外視しても出すという判断はあってしかるべきなのであり、瀬戸内さんをそのようには遇していなかった表れかもしれない。
一方、瀬戸内さんは、新潮社からデビューしたという強い思いがあったのだと思う。文学的代表作の「夏の終わり」に始まり、一連の自伝的な私小説の力作はすべて『新潮』で発表している。後に瀬戸内さんと打ち解けた関係になってから思ったのだが、瀬戸内さんの文学的野心作は、齋藤十一さんに向けて書いていたのではないかという気がしてならない。
「齋藤さんは私の恩人」という言葉を何度も聞かされた。