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【ベビマセラピストへの道③】講座レポ「触れる」のスタートに立った卵たち🎵

赤ちゃんの肌に触れて「ママもベビーもにっこにこ🎵」
の秘めた深い価値
「存在への興味」「触れるってなんなんだー!」

いろいろあってベビマセラピストを目指します、の話の続きです。

一応ここまでの流れ

あっという間に1ヶ月がたちいよ講座がスタートしました!

4/20と21の二日間、ガッツリ導入に取り組んできましてすごく面白かった!!

今回なんでこのHOCORU直子さんのベビマを受けたかったかを改めて言葉にしますとね・・・

なんかもうほんとおこがましくて恐縮なんだけど

本質的な学びにしか興味がない!
ていうのが自分の中ですごく明確にありまして

手技の「方法」とかははっきりいってどうでもよくてwww

どうでもよいというのは言い過ぎなんだけど
方法と手順「だけ」聞いても「え?だから?」てなっちゃうの。

だってそれをやってどういう「体験」があるからやるのか。
何を「体験」したくてそれをするのか。

どういう人が、どういう気持ちで、どういう目的で、どういう使命感で、どいう喜びを得たくて、どういう関係の中で、それをやるのか
そしたら、そこに何が湧いてくるのか、何が生まれるのか、そこで感じたことが、どんな風に自分や相手に残るのか、それが世界にどんな風にインパクトを与え得るのか

伝えている講師の先生ご本人は
どうしてそこに情熱があるのか、どんな価値があることを信じてやっているのか、そこまで信じるに至りこうして人に伝えたいと思わされるだけのどんな体験をしてきたのか、どんなことに喜びどんなことを悲しみどんな願いを持った人が教えてくれるのか

そしてそこにどんな人が集まってくるのか、その人たちと一緒に学ぶことで、どんな新しいつながりに出会えるのか、それはただの「同期」なのか「ビジネスパートナー」なのかそれともそこで出会った「一生涯の友人たち」になり得るのか。

そういう意味で「ピン」とこないと「やりたくねー、興味ない」てなってしまう人間なんですよーうおうおう、だから学生時代すごく授業態度が悪かったですー先生たちごめんなさいねー!(そもそもスタミナがないからこのくらい濃く興味があるもの以外に薄く取り組むことができなくて他が淘汰されるというのもある)

それから、

「赤ちゃんとママが幸せ、笑顔」
もちろんこれ大事なんだけど、赤ちゃんてすぐ大きくなっちゃって、
その短期間の笑顔のためだけにやろうとか思わないのだよな私。

「それは赤ちゃんの時期にも使えるし、そして一生使えるし、そして誰にもでも使える」

みたいな普遍的で汎用性が高いこと
そういうのが好き
(結局その方がコスパいいじゃん!ていう勘定なのかしらこれ😆)

そんな私のまわりに、なぜだか直子さんのベビマの世界に出会ってどんどん変わっていく友人たちが何人もいましてね
これはすごく深く価値ある学びなんだろうなぁ〜って前から気にはなってたんです。
でもそれだけまわりにやってる人すでにいるわけだから、わざわざ私がやらなくてもいいかなと後回しにしていたのですが、①に書いた変態モードが発動してやりたい!となっての今。

改めてですね、そういう理由で参加した講座なんですよ
つまり、そういう普遍性や汎用性や深さ広さを感じて面白そう!
だったから飛び込んだ講座なんですよ、

ハウツーだけじゃ絶対なさそうっていう予感はあった上でですよ。

とうことを先に明確にした上で

初日やったこと、いいましょうか?


8時間かけて。


自己紹介。



以上。


しかも、全員終わらず二日目に持ち越しwww


つまり最初の2日連続講座のうち、6割くらいは自己紹介してました。


シンプルに、お互いを知る。

職業とか出身とか名前とか
ツカミとかそういうレベルではなく

その人の人生がまるごと感じられて存在として愛しいし
「生きててありがとう今日出会えてまじで嬉しい😭」
とならざるを得ないくらいの自己紹介をお互いにやっていくという。


当たり障りなく、
みんながニコニコポジティブに受け入れられて
場の空気がアゲアゲになるようなことばかりを話してそうなるわけもなく。

むしろ、

心の奥深く、魂の深層部にある傷とか
そこに至る体験とか
命がえぐられるような辛さを
つっかえつっかえ声を震わせながら話してくれた人もいるし


逆に

「誰がきいても圧倒的にそれは痛かったろうとわかる」
ような劇的な経験があったわけじゃなくて
だから、人生の浮き沈みが、
超キラキラもなく、超死にたいもなく
「何もない」と思っているようでいて
その間ずっと、えも言われぬ締め付け感の中を
手探りでずっともがいてきた人もいるし


一人一人全然違う体験をして生きてきたのに
なぜか全員の話をきいてて
「あぁ〜あるな〜」と想起される感覚があり
ぐっときたり涙が出たり、自分のことをいろいろ思い出したり。

話終わったらもうみんなソウルメイトになっちゃってる。
みたいな感覚なんです。


自己肯定感とか、自信を持ってとか
いろいろそういう言葉ありますし私も大事にしてるんだけど


そもそものスタートとして
「いろいろあったけどここまで一生懸命生きてきたから今そこにいるんだよ」
ていうことを、みんな忘れてしまう。
私もそうで。

「〜〜〜の私。」
てはっきり簡単に自分を描写できる一言がずっと欲しかった。

デザイナーとかクリエイターとかアントレプレナーとか
MBA取得とかCEOとか

なんかよくわからんが絶対なんかすごい頑張ったし何か実績ありそうだし創造力とか社会性とか高そうで有能そうに見える肩書
とかが欲しくてそれが「ない」とか思ってた時期もあったんだよなぁ。

でも、そういうことのはるかはるかはるか手前の感覚で
「あぁ、私が生きてること、そしてあなたが生きてること
 今出会えてること、嬉しい、最高、よくやった、俺ら最高」
みたいな出会い方を、大人になってからできるってこと。

そういう世界があると信じられるし
自分もその一員だと心から感じられること。

そこにある深い安心や信頼の感覚。

まずそれがありき

それが「ベビマ」のスタート。

っていうのをまんま体験した1日目だったなと思います。

手技が間違ってようが順番がどうだろうが

「私最高あなた最高今生きてる、最高」を
「深い安心と信頼と共に感じている」という状態があれば

「ベビマ」は大成功で

それは、「赤ちゃんに感じさせてあげるため」にやるわけじゃなく

まずやる方が自分でそれを感じ切っていられる。
それがそのまま子どもにも伝わる。
で、その意味でいうと、対象は赤ちゃんである必要は全然なく

チャイルドも、パートナーも、親も、友達も、誰だっていい。

生きていることの、ものすごく根源的な祝福感を思い出す。
そのとってもパワフルなツールであるベビマの
ハウツーに入る前に、まずはその祝福感そのものを
自分の存在を通して思い出す。

そこにじっくり時間をかけていくのが
この講座の特徴なんだな〜と納得しました。

練られた特殊なワークをやるわけでもなく
ただただそこに集ったお互いの存在を信じて自分のことを語り
全身全霊で聴き合うだけ。

ワークの効率の良さすらも必要ないんだよねっていう信頼感。
丸ごと感。


それは、講師の直子さんが
数々のベビーやママたちと実際に触れて
いろんな実体験、生の体感を積み重ねてきた上で
ご自身の生い立ちとか子育ての中での気づきとかも
全部総動員して、もちろんいろんな研究やエビデンスも
いろいろと理解し確認し現場の体感を裏付けた上で
ドーンと信じてそこにいるから。

それが伝わるから、みんなが心を開けるし
「ここで心を開いて学びたい」
と思う人が集ってきたからそうなっているんだと思う。

そして自己紹介の後に直子さんから受け取ったのは

「生まれてくる前」に私たちがどうやって生きてたかの話。

つまり、お腹に入ってから、出てくるまでの胎内にいる時間。

生命の誕生プロセスの解像度が上がり
そしてお互いの話を聞く中で
生まれた後の人生の解像度も上がり・・・

そんな中、直子さんから繰り返し言われるのが

セルフエスティーム

自分が大切に愛され尊重されるべき価値ある存在だと知ってますよ
って心から思えている感覚。

これが何より大切なんだよ、という言葉。

これがメイン。

手技も順番も効能も全部大事だけど
一番一番圧倒的に大事なのはココ。


最初に一言それだけ言われたら「なんで?」と思ったかもしれない人も
ここまでお互いを感じた後だと「それな」となってしまうよね。

ここから!やっと!

エビデンスとか手技とかに入っていけるわけです。

実際に、具体的に、知識を得て、人に触れて体感も得て

人にお伝えできる「セラピスト」として独り立ちするにはまだまだこれから3ヶ月ほどのお時間いただきます。

こんなスタートを切った私たちが、夏にはどんなセラピストに成長しているかな?
今からとっても楽しみ!

最後に、個人的に、嬉しいなと思ったことを書きます。

どんな体験にも優劣はないんだけど、心の中でついいろいろ比較してしまう、ていうのに自分で苦しんできた面がありましてね。

怪我で例えたら

指先を激しく擦りむくのも超痛いし
脊椎骨折も超痛いわけで脊椎骨折に比べたら大したことないから指先の擦り傷は放置する。

とか、怪我だったらたぶんしない。

でも心のことになるとそれをやってしまう。

それは「私より辛そうな体験を持ってそうな人」の前に、自分の傷を過小評価することにもつながるし

「私より平凡な体験しか持ってなさそうな人」を前に、「あなたにはわからないでしょうね」と勝手に孤独を感じることにもつながってきた。

でもそれを私が勝手にやっているということを俯瞰している自分もいて

この凝り固まった感覚がゆえに、人とつながるのに時間がかかったり、何かを信じきれなかったりするところにもどかしさと残念さがあって。
ここを溶かしたいとずっと思ってきた。

年月を経て、いろんな経験をして、多くの人と出会い、
そのために、そんな凝り固まりがひとつひとつ剥がれて溶けてきていて
そして今回もまた、ガバっと大きく、溶かしてもらえたなぁ!
という気がしているんです。

私の中で、「脊椎骨折」的な、相当深いところを抉られて、致命的な傷や後遺症になり得るような体験としてイメージされるものがいくつかある。

今回出会った仲間の中にはそういう体験を持っている人たちもいた。

一方、傷の「種類」でいったら「切り傷」や「擦り傷」かもしれなくて、人に「切り傷できた」と言っても誰も心配もしてくれなくて「当たり前だよそのくらいあるよ」て言われ続けて自分でもそう思ってきた、ような感覚の人もたぶんいて。

でもそれって、その結果、その切り傷がずっと放置されてたってことなのかなとも思えて。
想像してみたら、実は切り傷が全身のそこかしこにあって、でも、当たり前のことだから気づけなくて、傷薬も塗ってないし絆創膏すら貼ってなくて、そのまま皮膚が剥き出しになってて、だからいつもすごく痛くて怖くて、その皮膚を少しでも守りたくてガードしないと生きてこれなかった、みたいな感じ。

私自身の中にも、両方ある、どっちもめっちゃある、し
この世界の中に、その両方、あるいはそれ以外のものも含めたいろんなグラデーションの痛みの感覚が本当にその人ごとにあって。

ほんとに、ほんとに、みんながそれぞれの怪我と共に一生懸命生きてきた。
ただただその事実があるだけだと、今回めちゃくちゃ思った。

大事なのは

そこに傷があるなって気づけること。
気づいても大丈夫な(傷がある事実を受け止められる)だけの安心があること。
つまりそういう自分を受け入れてもらえるという人との関係や場があること。
その結果、その怪我が、「治った」あるいは「治ろうとしている」こと。「放置」したり「悪化」ではなく「生きたい、だから傷を治すんだ」に向かっていること。

それがあるのかどうか。

傷の大小に関わらず、それがあるところには希望があるし
それがないところには絶望があるなと思った。

そして、ここに集まってくれたみんなは
いろんなことをたくさん感じて生きていた上で今
その「希望」を見出してもっと育てて生きていこう!
というエネルギーにおされてこの会場に座ってるんだなと感じた。

そのことが・・・
みんながそうして、それぞれの人生を生きてそこにいることも
そう思えている自分がいることも
どっちもとっても嬉しい。

そして、そこにいるみんなも自分も
本当に尊敬する。


そうやって、何を感じて生きているのか
何を感じて生きていたいのか
何を感じて生きていくべきだと自分が思いたいのか

ひとつひとつ発見していく中で・・・

あらゆる人の命を存在まるごと祝福する。
その世界に圧倒的に安心と信頼を感じている。

その自分として生きている私がだんだんあらわれていく。

「スゴイ自分に変身する」とか
「できてないことを直す」感覚じゃなくて


天才仏師が木の幹から一仏を掘り出すような感覚で

元々いるけど忘れてただけの本来の感覚を
何かが剥がれて溶けるたびに思い出し表現できるようになっていく。

そのジャーニーを生きている私が
誰かの肌に触れるから、それが人に伝わっていく。

完璧に掘り出された完全体の仏像たる「私」だから、じゃなくて
掘り出そうとし続けて、そのプロセス全部を
もうすでに誇り高く生きてる「私」が触れるから

それでいいんだ、という安心や信頼が
触れられた人に伝わるんだと思う。

そしてそれを「頭でわかって」「思考で思って」もなかなかできない。

だからこそ、奥に触れたい。
言葉通り「触れる」ことが奥に届く。
医学的にいうなら原始脳と呼ばれるめちゃくちゃ深い認知の引き出しに

存在の祝福や安心や信頼のメッセージが届いてくる。


だから、セルフエスティーム言われてもどうしようもないんだよな
と思う人ほど、自分自身が「ベビマ」を通じて
さらに癒されいき、いつかそれが「頭でも」思えるし全体的に一致感あるなーところまで届いていくプロセスが必要なんだと思う。


きっと今回出会えた同期のみんなは、そんな直感に集まってきた人たち。

「え〜ほんとかな?」と半信半疑ですよ!!
と言いながらもきてしまった人たちもいてw
そんな本音すら口に出し合える安心な場所。

その場所でこのセルフエスティームにまつわるいろいろな話を聞き、
お互いの話を聞き、肌に触れ、あっという間に体感は変わり始める。

傷とともに、それを癒しながら
でも癒し終わるのを待ち続けるのではなくもう今から
私は存在価値と生命力の塊としてここからを生きれそう

そんな予感が漂う顔つきになんとなく変わっていく。
それを早速みんなで味わえて「次回まで会えないの寂しいねー!」
なんてすぐ声かけあえる関係になれたのも嬉しかった!



そんな講座の後、帰宅して家で待っててくれた夫と息子二人への愛しさが倍増しちゃうよね。
眠りにつく前の長男氏にさっそく触れていくと
本当に嬉しそうにニコニコ笑って受け取ってくれる。
愛を受け取ってもらうことも、本当に大きな喜びだなぁと改めて実感。

さぁ、どうですか、こんなベビマセラピストたちに
ベビマやってもらいたくありませんか?へっへっへ

いかがわしい意味は一才ありませんが
対象は老若男女問いませんのよ。
性別も年齢も国籍も職業も問わず
どんな人も「触れる」「触れられる」から
何かを剥がしたり届けたり届けられたりとかされたりして
受け取り上手になっていくポテンシャルがあります。

受け取ってみたら、世界が変わるかも。
生きづらい、が少しずつ、溶けていくかも。
なんだか先に進まない。
なんだかいつも調子悪い。
なんだかなぜか苦しい。
そういうものが、やさしく流れ始めるかも。

そのうち、オラがやってやっからよ、楽しみに待っといてね。

次回講座は6月!
かけてない「原体験」の続きもそれまでのあいだに書くよ、たぶん!

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