楽園瞑想~母なるものを求めて(3)
石垣島にふらりと旅行に来た私。
島のオバアとの暮らしに生命力を取り戻して…
✱
「かよ子、来ーい」
遠くの方で、オバアが私を呼ぶ。
手を挙げて、私は答える。耳元で風が鳴り、帽子が飛ばされそうになる。
潮が引いた入江の干潟。オバアと二人、潮干狩りに来ている。
遠くにいるオバアが小さく見える。オバアの後ろは、潟が空との境目まで続いている。大潮で海が見えない。
私はオバアの居るところまで歩いて行く。
照りつける太陽。吹き出す汗を、風がかき消していく。海は涼しいよ、とオバアは楽しそうに言う。私は、焼けつきそうだと思うけど。
バケツの中は採れたアサリでいっぱいだ。バケツがいっぱいになったら網に移し、網がいっぱいになったら家に持って帰って砂を吐かせ、鮮魚店に卸すのだ。
オバアが掘る所、アサリがごろごろ出土する。私が、ちっとも掘れない、と言うと、オバアは答える。当たったら合図するよ。私が見逃しているだけかな?そうさ。
この日は十キロくらいの収穫があった。オバアはアサリ採りの名人だ。
二人でアサリを半分づつに分けて網に入れる。オバアは半分をなんとその肩に担いて、干潟をすたすた歩き出した。小柄な身長に似合わない頑丈な足腰で。
私はオバアを追いかける。
潮風に晒されたその佇まい。絶景。私は目に焼きつける。
私は残りの半分を担ぎきれずに、オバアの後からずるずる引きずって歩いて行く。
その日の晩御飯は私のためにアサリ出しのソバを作ってくれた。
オバアは干潮の時刻に海に出る。ほとんど毎日出る。自分でワゴン車を運転して。
海が好きなオバアは、もう一つの楽しみがある。畑の仕事である。朝、私が起き出す頃には、オバアはもう一仕事終えている。
日の出前には畑に出かけ、暑くなる前に帰ってくる。収穫したカゴいっぱいの野菜をさげて。
採れたてのゴーヤは、朝ごはんのチャンプルーになる。ときどき、きれいな緑色のジュースにもなる。
自然とつながったオバアの生き方を、私は尊敬する。
オバアは欲張らない。その時を、一日を、楽しみながら無事に完結させる。その連続でオバアの歳月は成り立っているように見える。そして節目節目には、確かな実りがもたらされる。大地のように、草木のように。だからなのか、オバアは良い顔をしている。
そして、母のように振る舞う。私のことを、みんなにこんな風に紹介する。うちの三番目の娘だよ。ヤマトで拾ってきた。私は胸が熱くなる。
けれど、オバアは私のことを、ほとんど何も知らない。知りたがりもしない。人間関係をそんなに複雑に考えないのだろう。
目の前にいる私を、自然の一部のように受け止める。星を見るように、花を見るように、私を見る。
そして気づく。私が都会で築いてきたものたち。成功したこと、失敗したこと。それらのことは、オバアの前では、何の価値も持たないのだ、ということに。
この人は、人間の付加価値とは別のところで生きている人なのだ。たくさん所有することは良いことだ。有形のものであれ、無形のものであれ。そんな信念を、オバアはいともあっさり覆してくれる。
自然な暮らしをしているオバアは、昔からある絶対的な価値に繋がっているのだろう。
私も自然の一部になりたい。
(続く)
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