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【適応障害】で、自尊心って何なの?

今日は九月十五日、新月。

新しいスタートを切る日と言われる新月の日に、「自尊心」というテーマがふと浮かんだので、気ままに綴ってみます。


自尊心とは、根拠のない自信と言われます。

存在そのものに価値がある、と思える心の有り様です。

自尊心が育まれる背後には、見守るたくさんの人の手や眼差しが存在しています。

自尊心は決して一人では育つことはありません。

なぜ自尊心について語ろうとしているのか、というと、今朝、ふと、ある人の事を思い出したからです。

十六年前にお試しで石垣島移住生活をスタートさせたとき、泊まっていたゲストハウスで会った人です。

大阪から旅行に来た男の子で、歳は二十歳ぐらい、水泳のコーチをしていると言っていました。

ゲストハウスには彼と、彼の連れの大学生の男の子、私、北海道から来ていた女の子と四人しか泊まっていませんでした。

私たちはすぐ仲良くなって、石垣島一周ドライブに出かけたり、ゲストハウスの近くで一番美味しい焼肉屋を教えてもらって一緒に食事したり、楽しい思い出があります。

その水泳のコーチをしていた男の子がつぶやいた言葉がとても印象に残っています。

「自分に満足してる」

そんなことを言う人に初めて会いました。

満たされている人はこんな感じなんだ、と見入りました。


彼の印象をスケッチしてみると、

♢平凡(もしかしたら非凡なところを隠しているのかもしれないが)

♢ギラギラしていない

♢満たされている

♢(年齢や立場に関係なく)誰とも分け隔てなく接している

♢ニュートラル

♢高慢さも卑屈さもまったく無い

♢人に気を遣わせない、気を遣わなくてもいい

こういう人を自尊心のある人と言うんだろうと、直感でわかりました。

年相応というより、どこか年齢や性別を超越したような雰囲気がありました。

彼のような人は一朝一夕に作られるものではありません。

両親やたくさんの人の手と眼差しに支えられているのです。


これまで私の周りはギラギラしている自己愛タイプに気がつけば取り囲まれていたかも知れません。

彼らは成果主義で、どれだけの事をしたか、どれだけ優れているかを誇示しようとして、マウントとったり自慢したりの、自分に満足していない人なんでしょう。

私も非凡でなきゃ、特別な何かを持った人にならなきゃ、と自分を鼓舞してきたのは欠乏感からなんだろうから、偉そうに人のことは言えないのです。

私も自己愛タイプと心の痛みを共有している類友だったかもなあ、と思います。


その彼とは、五、六年前に彼が石垣に再び旅行に来たとき、再会しました。

彼は相変わらずニュートラルでした。

若い人特有の思い上がりも無ければ、陰りも屈託も無く、さっぱり透明で明るくマインドフルな感じがしました。

たぶん彼は、あらゆる年代の、あらゆる人から、つまり老若男女だれからも好かれるんじゃないかな。

私は彼のような人に会った事はありません。

彼は、私にもらった貝細工のブレスレットを宝物のように毎日眺めている、と話しました。

え? 私、覚えてない。

それより、石垣産のパイン、送ってあげたよね? 美味しかった?

と確かめると、

え? 僕、覚えてない。 

お互い、覚えているところと、忘れたところが、花かダンゴか、みたいで可笑しかった。

ずっと記憶の底に沈んでいた思い出が、新月の新しいスタートを切るタイミングに浮上してきたのは嬉しいことです。 

私もニュートラルに生きられるようになりたい!

新月に誓いをたてました。


私に影響を与えて、今こうしてnoteに書いているとを彼はまったく知りません。

ニュートラル、新月の日の誓い、貝細工のブレスレット。

水泳のコーチをしていた彼の名前も忘れている。

オガワ君だったか?

さて、自尊心について上手く書けたか、伝わるように書けたか、分かりませんが、これだけは言えます。

自尊心のある人は、ニュートラルでギラギラしていませんよ。


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