子供の目と大人の目
私たちは、みんなそれぞれのマイストーリーを持っている。そして、そのストーリーのとおりに生きている。
思いグセや、なぜか、いつもやっているパターンがある。
たとえば、いつもハッピーエンドになる、あるいはバッドエンドになる。いつも脇役である、いつも可愛がられる役、またサポーター役、ピエロ役…。いつも何かの役割を生きている。
そんなこころの物語は、子ども時代に起源をもっている。
子ども時代の記憶とは、小さい子供の目で見た現実、ということだ。それは、人間の発達段階のはじめのまだ発達しきらない子どもの脳と心で見たり感じたりした世界を現実だと思っているということだ。
ピプノセラピーでは、こうした子どもの目で見た世界やまわりの人にたいする認識を、もういちど現在の大人の目で見直すことができる。
そうすると、子どもの目で見た世界のイメージを、大人になった現在もずっとそのまま引きずっていることに気づくし、また子どもの目で見た世界のイメージは正確ではなかった、ということにも気づく。
小さい子どもの目と、大人の目。
大人にとっては大した事ではなくても、小さい子どもにとっては死活問題というぐらい大変なことがある、といったら解ってもらえるだろうか。
以下は私のピプノ体験。
私は学校の先生が嫌いだった。ほかの生徒にくらべて可愛がってもらえないで寂しい思いをしたからだ(そう思い込んでいる)。その「可愛がってもらえず寂しい」感情の元になった過去の出来事をピプノセラピーで見に行った。
退行催眠で4〜5歳までさかのぼったら祖母がいて、祖母との過去を体験した。
私は祖母がきらいだった。祖母はふだんは無口で家の中のどこに居るのかわからないほど静かな人だった。私が炊きたてのご飯を自分のお茶碗によそおうとしたらとつぜん祖母がどこからか現れ、「仏さんや神さんにあげずに自分が一番に食べるな!」とピシャっと怒られたことを私は根に持って祖母を嫌っていた。
小さい子どもの目で見ると、ただただ恐ろしい出来事だった。しかし、現在の大人の目で見ると、祖母の言うことは筋が通っている。
祖母は仏壇と神棚には毎日、炊きたてのご飯とお花、榊をお供えして家族のためにお祈りをする信心深い人だった。祖母は家を守ってくれていたのだ。しかも毎日、かまどでご飯を炊いて食べさせてくれて、私はいまどき貴重な味の体験をしているのかもしれない。祖母は明治の女だった。
祖母は私が小学校4年のときに亡くなった。
私の思い込みだった。たしかに怒られたことは小さい私にとっては傷つき体験だったが、怒られた意味や祖母の思いは小さい私にとっては理解ができなかった、ということが今回のピプノではじめて解った。
私は祖母に守られていたのだ。
私は祖母から愛されていないと誤解して、まちがった思い込みにこころが傷んでいた。学校の先生がきらい、「可愛がられなくて寂しい」思いをしたからという感情は、このときの祖母との出来事に紐付けられていることがわかった。潜在意識はちゃんとソコへ連れて行ってくれるのだ。
そして、祖母との出来事からくる寂しい感情は私の誤解が元であったことも判明した。
小さい子ども時代の原体験は誤解だったのだ。
小さい子どもの目で見た現実と、大人の目で見た現実は、違っている。
こういう誤解は、いっぱいしてきたのかもしれない。
子どもの頃の誤解が元で、人生、すごくもったいなく過ごしてきたのかも…。
被害者意識のフィルターがはずれると、世界は美しく見えてくる。
2021年はいい年でした。
noteで繋がってくださったみなさん、事務局のかた、お世話になりました。
力をくださって、ありがとうございました。
2022年の皆さまの幸せをこころよりお祈り申し上げます。
これからも宜しくお願いいたします。