あれから10年。ボクの人生を変えてくれた東北へありがとう。
今日は3月11日。東日本大震災から10年。
あの日、ボクはアスファルト舗装施工会社の親方として滋賀県の工事現場でスコップを振っていた。
元請の監督さんから
「みっちゃん(当時ボクは取引先からは結構そう呼んでもらっていた)、東北の方で地震があったらしいぞ」
と言われた。
とは言え、当時まだほとんどの人がガラケーで、なおかつ仕事中だったこともあり大した情報など入ってなかった。家に帰るとニュースでとんでもない映像が繰り返し流れていた。
それから一年ほど経ち、被災地にいる知人から被災地を見に来ないかと言われた。
正直言うとボクは行くのを躊躇していた。
話は少し遡り、阪神大震災の時、ボクはちょうど大学受験の合格発表の日だった。
京都に住んでいた(今もだけど)ボクは、当時の記憶が衝撃のあまりかなり欠けている。早朝、それまで感じたことの無い揺れに飛び起き、下の階に下りると、母親が倒れそうになっている食器棚を一人で支えていたのを覚えている(まさに火事場の馬鹿力を見た瞬間だった)。
震災後、ボクは怖くて、かなり経ってからしか神戸に行く事ができなかった。被災地を見ることがどうしてもできなかった。あとあと見なかった後悔と言うよりも何とも言えないモヤモヤが残っていた。
東北の被災地に来ないかと言われた今回も、その時と同じように恐怖があった。ただ当時感じたモヤモヤを思い出し、今回は現地に行く事、自分の目で現実を見ることを決意した。
ボクが訪れた街は宮城県塩竈市、そして日本三景で有名な松島の町。
仙台空港に降り立ち、車で移動していると道路上のマンホールがどれもこれも1m以上飛び出ていた。話を聞くと、マンホールが飛び出てるのではなく、道路が沈下してるとの事だった。色んなものがそこらじゅうに放置されている状況だった。色んな工事も途中で放置されてるような感じだった。
2日目は海岸線を走った。建物はほとんどガレキとなり、まだほとんど崩れたそのままだった。たまに鉄骨の骨組みがそのまま剥き出しになった建物が残っており、それが確かにそこに住宅があったんだという事を告げていた。広い空間の中にたまに重機がガレキを山積みにしていた。一年経って何も進んでいないのは現地を知らないボクから見ても明らかだった。
現地の人たちと話す機会もたくさんあった。
みなさんに何と声をかけてもいいかも分からなかった。逆に皆さんの方から話してくれた。ボクと話した人たちはみなさん「わざわざ来てくれて本当にありがとう。それだけでうれしいんだよ。」という言葉と、「僕らは生きていることに感謝して、あとは前を見るしかないよ」という言葉をかけてくれた。
当時、ボクは自分の状況を悩んでいた。このままではいけないと思いながら、変えられない自分に悶々としていた。お客さんの喜ぶ顔を直接見る仕事がしたいと思いながら、そんな仕事についてない自分にイライラしていた。色んなしがらみや壁を自分で作って、勝手に諦めている自分に嫌気がさしていた。
東北の街を見て、人に触れ、ボクは自分の人生を変える勇気をもらった。
「人の人生はいつ終わるか分からない」という事を強烈に叩きつけられ、自分を変えたいなら今変えるしかない、やりたいことがあるなら今やるしかないと気づかされた。
京都に帰り、家に帰って嫁さんに「不動産会社を立ち上げる」と告げた。
それから毎日現場から帰って眠気に襲われながら夜な夜な宅建の勉強をし、受験をした。一年目は落ちたけど、諦めるという選択肢は無かった。二年目なんとか合格し、プラスホームという不動産会社を立ち上げた。あれから7年経った今もお客さんの笑顔を見ることに喜びを感じ、ありがとうの言葉に喜びながら何とかやれている。
ボクは東北の街に人生を変えてもらった。
東北の人たちに生きる事への感謝と前向きに生きる力の凄さを教えてもらった。
東北の生きる力に勇気をもらった。
すぐに忘れてしまいがちだけど、またいつでも思い出さなきゃいけない。
ボクにとって東北は感謝すべき街。いくらありがとうと言っても言い足りないぐらい恩のある街。
またいつか必ずあの街に行こうと思う。