すっぴんアクティビズムしたい-『脱コルセット:到来した想像』
日本にも通ずる「介入社会」
個人の領域を侵すこと、これは日本社会にも共通していると思ってハッとした。他者からのジャッジが一般化している。容姿、学歴、職業。家庭内でも親戚の集まりでも学校でも会社でも友人との世間話でも、ずかずかと個人の自由に土足で踏み入る。村社会・ニッポン。最近は欧米の影響が色濃く「ボーダーレス」「ジェンダーレス」「ボディポジティブ」みたいなところから日本でも若者世代中心に一般化しつつあり私もそのマインドに大賛同しているが、村社会文化はまだまだ色濃い。だからこそ介入社会へのストライキを原動力にする脱コルの社会運動的価値は大変高く興味深く読み進めた。
脱コル大賛成。でも
脱コルの理論は「介入社会へのストライキ>脱コルの強制はよくない」と前者のほうに重きを置いているようだ。「介入社会」が日本でも社会通念になっているからこそ、社会運動としての大義はとても理解できるし賛同する。でも自分ごとに落としこんでみたとき、正直踏みとどまるほうが勝る。その背景に2点の考えがある。
強制力に抵抗がある
「たまに脱コル」「顔だけ脱コル」じゃ意味がないというのが脱コル理論。脱コルに参加することをすすめる圧力・強制力に抵抗を感じるのが今の私の正直な気持ちだ。自由意志を大事にしていたい気持ちがやっぱり大きい。介入社会へのストライキの形は別にないか。介入はナンセンスだよという投げかけを他の形で表現できないか。たとえば価値観の違う祖母のような二世代上くらいの人との会話で「あなたは女の子なのに父に似ちゃったわねえ」のような容姿揶揄があったとする。そんな時に無意識な毒を自覚させるような切り返しを重ねていく。「女の子だからそれは残念なわけ?」「見た目のこと言うの今の時代失礼なんだよ(直球)」とか。
心ない容姿揶揄の言葉を浴びた時は「うるさい」みたいなリアクションしかとれず、相手に毒を自覚させる上手い切り返しを避けて生きてしまったから苦手なのだがそこは頑張っていくとして、私は「対話」で介入社会へのストライキをしたい。
主観的着飾り派なんです
私にとって特にファッションは主観的着飾りだ。男や社会にモテる服ではなく自分が好きな服を着る。ひとくせあるもの。ブランドのクリエイションに尊敬して
いるもの。時代を継承するヴィンテージ。人や環境にやさしい生産背景から生まれたもの。ステートメントファッションにこだわっている。
アクティビストのなかには社会を変えたいという大義のために無理やり脱コルしたとう人もいる。立派だし素晴らしいと思う。でももう少し自分の幸せのものさしをかわいがってもいいんじゃないか?とも思う。たとえそれが社会に洗脳されてできあがったものさしだとしても。
生活費を払えないほど服に依存していた人とかは脱コルして価値観変わってよかったねと思うから、自分の着飾りは不健康な状態じゃないか、他人や社会を喜ばす着飾りになっていないかを翻り、自分だけの幸せ起点にシフトしていってほしい。
ピンク、ふわふわなモテファッションが心から好きならその感性は大事にしてほしい。
我が「すっぴん」観・今昔
すっぴんが恥ずかしい時代が私にもあった。その理由は眉毛と二重かも。
メイクした姿がデフォルトであるように素材を整えてしまっていたのだ。抜きまくって眉尻がない眉毛に、大幅二重になりたくてアイプチで元の奥二重線をつぶしてたら左右幅が変わってしまった二重。最近は生まれ持った顔素材を愛せるようになりたいと思って眉毛を全力で生やして二重整形も踏みとどまって、私も脱コルの気持ちですっぴんで過ごす日を増やしてみたら意外と調子よし。元の奥二重って線濃いし案外イケてるかもと思えるようにもなった。生まれ持った自然な配置がその人の黄金バランスかも。ただどうしても生えてこない眉尻の毛と二重幅の左右差は変えられない過去の遺産で後悔している。これはもうアシンメトリーの美と捉えていくしかない。
今の私にできる脱コルアクティビズム
着飾らない日を増やして、その姿で会社に行くこと。すっぴんを愛おしく思えるように自分の目を慣らすこと。主観的着飾りは否定したくないので、おしゃれしたい日は大いに着飾りを楽しむ。否定すべきは「すっぴん=手抜き」「ラフな格好=手抜き」「恥ずかしい」という固定概念。着飾らずに社会に突入して、友人や会社の人からこいつすっぴんでもなんか堂々としてんなって思ってもらいたい。すっぴんで過ごしてるのも悪いもんじゃないなって一人にでも多く思ってもらいたい。それが今の私にできるアクティビズム。
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