
パターン化する人間は自由に生きていられるのか?
人間とはパターン化の塊であり、癖、好み、思考回路、言動、性格、立場、人生などはすべて、その形作られたパターンを土台に立っている。
パターンとはつまるところインプットのリストであり、生まれてから死ぬまでに見聞きしたことが積み重なったものだ。AならばBというごく簡単な対応関係から、もしAならばB、そうでなければCなど、条件に応じて多くのパターンが存在する。
それらを履行することこそが人間というものであり、私達が意思と呼ぶものである。だからそれは予め決められているし、パターンがインプットされなければ人間とは動き出せないものである。
しかし、だからといって何もかもすべてが決まっているという意味ではない。まずなにより、パターンとは変化する。昔に見聞きしたことが、今になって更新されるというのは当然だし、成長につれて受け取り方も、解釈の深さも変わっていく。
そして見聞きしたこと、というのは正しいとは限らない。もしくは自分自身に合っているとも限らない。とりあえず仕方なくリストに入れてしまったが、どうにもしっくりこないことは普通だ。
さらに見聞きすることというのは、誰か他人の意図が含まれていることも往々にしてある。即ちあなたのパターンは、あなたの自由にできるものではないのだ。とすればそれは、あなたの人生とは言えないし、あなたという人間はあなたのためにあるのではない。
このような、人間というパターンの塊は自然的なものではなく、あくまでも人工的なものだから、絶対的な存在ではない。
真に重要なのは、パターンを理解すること。それも、「今、このときの自分のパターン」を。そしてそのことに、自分がどう思うかを整理し、意思を決めることだ。パターンとはあくまで判断材料でしかなく、それが人間の礎とはいえ、なにがなんでも守らなければならないものでもない。
人間は変化する。パターンは更新される。
そういうことを了解して、人間はとしての生を進めていくことが、1つの自由な、そして自らを尊重した生き方と言えるのではないだろうか。
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