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寛容がきちんと目的であるために

 寛容をツールにしてはならない。

 それはベースである。そうでなければならない。
 即ち何かのために用いられる打算的な寛容は、言ってみればただのパフォーマンスでしかなく、それは寛容なのではなく寛容なふりなのだ。私たちがある目的を成し遂げたいから、とりあえず他人のことを受け入れているポージングである。
 真に寛容を目指さないのであれば、せめて私たちは自分を寛容だなどと言ってはならない。つまり何かの目的のためだけに寛容さを道具にするのなら、他者との共存を望む寛容という考えを、安易に振りかざすべきではない。

 寛容は態度であり目的だ。
 それはけして技術でも手段でもない。

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