ただあたりまえに「人工的」な社会を意識する
社会とは天然だろうか?
つまりこの人間が生き、構成するコミュニティというものは、ただ自然に(そしてただ流れるが如く法則的に)、なんの意思も介在せず、この世にあるのだろうか。社会というものがあまりに大きく、漠然とした概念に思えるがゆえに、それについて考えることはあまりない。だから社会は当然のように、そこに、私達の行動の結果をそのまま反映しているのだと、きっと誰もが思っている。そう思う他ない。
けれど、社会は天然とは限らず、むしろ大いに人工的なものだ。人間が形作るのだからある意味で当たり前と言えるかもしれないが、そのことに人間自身がなかなか思い至ることはない。自身の所属しているもっとも大きな範囲のコミュニティについて、思いを巡らせる機会は少ないからだ。そして社会について考えたところで、それが自分に利益になるとも思えない。
ともあれ、わたしたちがそれに興味関心を持とうと持つまいと、社会とは天然ではなく人工的なものだ。人工的とは即ち、コントロールされているということである。善だろうが悪だろうが、何者かの意思によって社会というものは「運用されている」ものである。それは、完成すればそのまま放置されている彫刻品ではない(メンテナンスは別にして)。
社会とは、システムであり、たとえるならば機械製品であり、日々改修を続けるプログラムのようなものである。だからそれは常に、それを監視し、保守し、あるいは何らかの方向性へ変え続けられていくものである。
むしろ、社会とはそうでなければならない。ただ単に存在するだけのものだとすれば、社会はあっという間に廃れてしまう。人間のためにならない。だから私たちは、それを人工物として認識せねばならない。つまり、決まりきった何かとして動かしようがないものではなく、私達にとって社会は、もっと柔軟で、生きているとすら言えるものだ。
それと同時に社会は、当たり前のように何かの意思が介在するものである。その程度の存在である。それは感情を持った人間1人1人が構成員としているからである。ゆえに、社会は「社会」として天然に産み落とされたものではなく、歴史があり、変化があり、その上で意思によって形作られた人工物だ。
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