偽善偽善と言う前に
偽善という言葉が生まれるのには理由があって、それは私たちが自分を善と信じて疑わず、他人の方をを悪だと思っているからだ。
もっと正確に言えば、自分のほうが他人よりも善であり、より良く、正しく、しかも、誰かを罰する権利があると思っているからである。
つまるところ「偽善」とは、善を疑っているから出てくる言葉であり、認識と言える。この世には善に見えてそうでないものがたくさんあって、それを私たちは無くさねばならなくて、でも、世の中としては善だと扱われていることがあり、その区別を自分はできているのだ……そういう、ある種の驕りである。
偽善があるという認識において、善は常に疑わしいものとなる。それが事実かどうかは別にして少なくとも、「偽善」の考え方は、他人を認めずに自分の感覚を絶対視する妙な自信が裏にあるのだ。
人間である以上、自分優先で、他者のことを信用するのに慎重になることは否めない。しかし他者の行う「善」、その主張を偽物だと断ずるには、普通、人はそんなに誰かのことを分かるはずがない。
そういう観点では、偽善だと考えることこそが偽善的なのだ。「その間違った善を正さねばならぬ」と思うほど、その人は偽善の義憤に突き動かされている。
善も偽善も、そして悪意も、結局は人の感情でしかない。それがどのようなきっかけで発生したのか、どのようになっていくのか、実態を把握しようとする試みを軽視して、すぐにこれだと考えることを、私たちは戒めるべきである。
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