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創造性のリミット

 自由な創造など幻だ。それは誰にとっても難しく、制限があって、時には苦痛さえ伴うものだ。それでいて、多くの「創造者」が口を揃えるように、それはいつも辛いものなのではなく、絶対に楽しいものでもあるはずだ。
 創造的な活動には生みの苦しみがあると言われるけれども、しかしそれはごくわずかだ。それよりも生みの楽しみの方が大きく、創造者はみんな楽しく創造している。それでもなおそれが辛いものだと言われたり、思われたりしているのは、創造性というものはその辺りにいつでも転がっているものでもなく、というのは、創造者にとってすら常に力を与えてくれるものでもなく、リミットがあるからなのだ。

 そのリミットとは、即ち鮮度である。そもそも創造性は、想いのかたまりだ。「こうしよう」「こうなればいい」「これは嫌だ」そんな原点の気持ちを形にするのが創造性の力である。だからその火が消えないうちに、きちんと整えなければそれは「創造物」にならない。
 というよりも正しくは、その火は形を変えていく。どんどんと。人の想いなどそんなにしっかりとしたものではない。たとえ何かを創造したいと目指すほどに想いが強くても、結局それは、単なる人の心なのだ。簡単に変わるし、そうでなければ生きてなどいけない。ごくまれに、まったく原初の想いを変えないまま創造者となれる者もいるが、多くはそうではない。
 基本的に鮮度の良い創造性を形にするのは楽しいが、鮮度が落ちてしまえば辛いものとなる。そのような創造性を抱えることは大変だ。それはどんどんと想いとかけ離れていくが、しかし創造物にしなければならないという義務になるからだ。

 自由な創造など幻だ。それは誰にとっても難しく、制限があって、時には苦痛さえ伴うものだ。なぜならそれには鮮度があり、落ちれば落ちるほど創造物にしにくくなるからである。創造者にとって、それは望むところではない。しかしいつも鮮度を保っていられるわけではない。
 それがゆえに創造性とは、この創造的な世の中にあってなお、そこに生きる私達であってなお、制限に苦しむひとつの才能なのである。

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