創作はルールに縛られ/解放されるものである
芸術はルールに縛られていると面白くない。しかし芸術はルールから逸脱しているとわからなくなる。全ての「創作」一般に言えることとして、それらはルールの範囲内でしかしルールにとらわれてはならないという、矛盾したルールを課されることになる。
なぜならそれは評価されなければ無価値であり、評価されるためにはわかられなけれはならないからだ。作者のみのために作られた創作でない限り、作品は必ず価値を「見出される側」にある。だからそれはルールを破れない。
けれどルールは、既に生み出されたものである。それに縛られるということは、その作品は必ず「既存」の価値観から逃れられない。するとそれは、新鮮味のない凡百の存在となり、なんら新しい価値も評価も得られないことになる。
創作は、既存を打ち砕いて新しい価値を発見するものであることに疑いはない。多くの創作者はそれを目指している。しかし同時に、それは第三者に価値を見出されるためには向かないことだとも想像がつく。
すると作者は、「わかる」を優先してしまうのだ。わかられないことは悲しいから。人は誰かにわかってもらいたくて行動を起こすのである。何かを表明するのである。芸術的行為というのも例外ではない。わかられるために、その「神秘性」はわきに追いやられる。
神秘でない芸術が生まれるのはこのためである。そしてそれは責められることではないし、当然の成り行きだ。私達は創作されたものを、そして作者を特別視する。しかしそれらにルールをもとめる。一般的な。わかりやすい。本来ならば創作とはかけ離れた「理解」を。
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