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調べることはいつでもできる。だからしない。しなくても、知れるから。

 調べることが当たり前になった時代に、むしろ私たちは調べなくなった。
 自分で情報を仕入れられることが簡単になり、むしろ私たちは情報を仕入れなくなった。自ら動いて、能動的に情報を摘みに行くという行為は縮小した。なぜならそうせずとも、「誰かが」そうしてくれるからだ。同じように、調べ方を考えることも、調べた内容を解釈することも、それを益に繋げることも、「誰か」がやってくれる。だから、そんなことをいちいち気にすることもなくなった。

 別に、やりたくないわけではないし、きっとやろうと思えばできる。人間はそれをしてきたのだから、突然できなくなることなど、短い期間ではありえない。でも、しなくなった。それは人間が同時に、生き方を変化させる生き物だからだ。ライフスタイルは、思想は、生死は、今と昔で同じではない。そしてその価値観もそうだ。
 情報は、口を開けていれば勝手に放り込まれていく。だから、それは自ら動いてまで開拓しに行く価値が低い。そのように私たちは判断するのだ。残念なことに、もしも、それが真実でなくとも。

 調べることが当たり前なのは、調べることを当たり前に思う人だけだ。それを考えることも、考えることが当たり前に思う人だけが行う。やらなくとも生きていけるのなら、それは幸せだし別にそのままでいい。だから私たちは、調べなくなったし、解釈しなくなったし、生きることをひどく受け身に捉えている。
 自らの力はすごく小さくて。だれか、「何かをする」人々の動きに翻弄される。何をしてもそれは覆らないくらいに強いから、何かしても無駄なのだと。だから、受け身になる。守りの姿勢とでも言うのかもしれない。それが態度に表れている。
 この情報化社会における、私達の情報への価値観と、眼差しと、扱い方と、そして自らの頭の使い方(あるいは、使わないやり方)に。

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