権力を批判する権力という幻想
権力に意を申し立てるのに、なんの力も権利も、義務も、代償も、場合によっては正当性すらもいらない。権力は無条件に、それとして批判されるべきものだ。そしてむしろ権力とは、批判を内包して成り立つものである。だから権力は無批判でいられない代わりに、そこに世界を作り出し、動かす力を与えられる。
しかし、私達の想像では権力とはもっと崇高なものだ。つまりそれは聖域であり、不可侵であり、それが存在することの正当性を、上回ることが難しいとさえ思う。権力には種類はなく、弱いも強いもない。イメージとしての権力は、絶対に逆らえず、批判など許されず、そして常日頃、誰しもそれの利益と損害を被っている。
いつからそうであるかはわからない。けれど権力は強いものだ。そしてそれを持っている人もまた、少なくともそうであることのちゃんとした理由があるものだ、と考えられてしまう。
だから誰も、それを批判することを特別に感じる。そのゆえんは、批判が特別だからではない。権力が特別なものだからだ。そう思っている以上、私達はこの権力というもののハリボテの特別性に踊らされている。
大切なのは、まず、特別性は持っている力にではなく、持っている人そのものに関係するのだと知ることだ。つまりその人が特別だから、権力も特別になるのだ。逆ではない。権力はただの力に過ぎない。
そしてもちろん、権力への私達の認識が、それを崇高にしてしまっている、不可侵だと位置づけている要因である。だからその認識を、少しばかり改めなければならない。私達が本当に、権力を批判するためには。
そうでなければ、権力は、別の権力によってしか正されなかったり、立ち向かわれなかったり、邪魔されたりしないとすら、思えてしまう。それは間違いである。権力者は、なんの意思もない路傍の石につまずいて死ぬ。そのことを、皮肉や教訓や寓話ではなく、事実として受け止めなければならない。
権力者でなくともだ。誰もが、権力の本当の姿について偏見のない認識を持つ必要がある。
私達はそのような世界において、権力を批判する自由があると言えるのだ。また批判を覚悟で権力を握るということもできる。イメージや認識に守られている権力は既に特別なものではない。勘違いだ。
それをありがたがっているのなら、私達はその無批判な権力という空想に、この人生を委ねてしまうことになる。
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