ミスマッチ。ミスマッチ。いつもマッチを目指して
ミスマッチの時代である。
どんなものにでも「合う」と「合わない」があって、それを探しながら私たちは生きてきた。きょうだい、友人、恋人、結婚相手、家庭、学校、職場、住居、ファッション、食べ物……いくらでも、私たちは決めなければならない。それが自分に「合う」のか「合わない」のか。
それを決めなければ、私たちはどんどん息苦しくなっていく。自分に合わない学校や職場に通いながら、合わないご飯を食べ、合わない人たちと話し、合わないベッドで寝る。そんな生活は嫌に決まっている。
少しでもそういう「合わない」をなくしていこうと頑張るのが人生の目的の1つとも言える。でも、そういうのはどんどん上手く行かなくなっている。なぜなら今は私たちは、時代と「合わない」でいるからだ。
もしくは時代が私たちに合わせなくなっているのかもしれない。どちらにせよ、こんなにもミスマッチがふくれあがって、辛くて、どうしようもなくて、大変なことは中々ない。誰もが必死に、ミスマッチと戦っている。抗って、耐えて、それでも駄目で、折れてしまう人がいるくらい。
そういう時、私たちは何かに責任を被せたがる。自分のせい、他人のせい、時代のせい。そして攻撃的になって、その責任を被せた相手をひどく嫌う。そんな無駄なことをして、合わないものを合わないまま投げ出して、余計にミスマッチを助長する。
私たちは「合わない」と戦って、「合う」を探して生きる流浪人だ。そもそも、「合う」ものは必ずどこかにあって、「合わない」からといってそれで終わりなわけではない。わかっているはずだ。なぜ、私たちがそれでもめげずに「合う」を探し続けられるのか。それは、ミスマッチばかりのこの時代であっても「合う」があるのだと信じているからだ。その気持ちに偽りがないのなら、「合わない」とわかったものにこだわっている時間などないはずだ。
次に行く。責任も不幸も嫌な気持ちも忘れて、「合う」を探す。探し続けることをやめなければ、それは訪れる。ミスマッチの時代でも、「合う」はいくらでもある。「合わない」もいっぱいあるけれど、それと同じくらい、「合う」ものが見つかるはずだ。
そうしてマッチの回数を増やし可能性をひろげることが、この時代における「合う」処世術である。
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