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「本能」を言い訳にする人は何を守っているのか

 言い訳をする。誰にでも経験のあるこの行為に必要なのはその理由だ。理由がなければ良いわけにならない。言い訳とは、何かしてしまったことの理由を、適切でないタイミングでつらつらと述べることであると言える。
 細かく見れば、その理由とは多種多様にあるものだ。けれどその1つにして最も使われやすいものは「本能」である。

「男の性だから~」
「それが人間ってものなんだよ」
「まあ、言っても俺ら動物だしね」
「条件反射ってあるじゃん?」

 人間は動物だ。そして雌雄があり、他の動物よりは理性が発達しているとはいえ、本能というものも備えている。だからついつい、この秩序ある社会生活の中でそれが垣間見えることがあるのも事実だ。それくらい本能というものは確かに私達の中にあって、否定できない影響力を持ち、当然、別に悪いものというわけでもない。

 でも、言い訳に使われる「本能」は、そんなにいいものではない。なぜならそれは、言い訳だからだ。つまりそうして引き合いに出される本能とは、何か別の、その人にとって大事なものを守るための盾に使われている。
 要するに、それは打算的な本能の使い方というわけで、「本能だから仕方ないでしょう」という、醜悪な考えがある。誰にでもある、避けがたいものを盾にすることで、守りたいものを守れる確率が上がる。

 そうして、本能を言い訳にして守れるのは何か? それは即ち「今」である。あるいは「現状」、そして「現在の状態ややっていること」だ。それくらい、直近で起こっていて、他の言い訳や理由では、批判の目をそらすことができないようなもの。それでもなんとか、それをそのままでいさせたかったり、押し通したい時に、その人は「本能」を出してくる。
 すると確かに、本能ならば仕方がないと、ついつい思ってしまう人も出てくるだろう。でも、言い訳は言い訳だ。むしろ本能という「どうしようもないもの」を引っ張り出してくるという態度に、その居直り加減に、反感を覚える人だっているはずだ。
 けれど別に、それが批判されても良いのだ。言い訳が成功しなくたって良い。むしろ、そうして「本能を言い訳にする」ことが的になってくれれば、「それを言い訳にする人格」を否定されようが、その人が守りたいものは「今」なのだから、どうあれ大成功なのである。

 他の言い訳のやり方では、中々こうはいかない。だって本能ほど、「理由がない」と言い張れるものはないのだから。本能以外では、「なぜ」「どうして」をもっと深掘りしなくてはならなくなる。その質問攻めを避けられない。本能ならば「そうだから」で済む。済むというか、済ませることができる。そこで終わりだ、という態度を示すことができる。そして周囲の矛先は、守りたい「今」から少しずつ「本能」へとそれていく。「これだから○○は」「本能を言い訳にするなんてなんて人だ」「そもそも、そういうものがあるからこの国は・この社会は・この組織は」そんなふうに。

 そうやって上手くいってしまうから、本能を言い訳にすることをやめられない。それは強い。理性ある私達がずっとそれを手放せないだけあるくらいに、そして手放してしまってはもう私達は人間でなくなるから、それは切っても切り離せない。
 だから大事なのは、その論法に惑わされないことだ。本能を言い訳に使うのことは、極めて理性的なのだと、理解することである。それによって守りたい「今」とはなんなのかを、見失わないようにすることである。

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