革命は、あくまで個人のためのもの
革新とは与えられるものではないのに、現代ではそれは「革命家による」ものになってしまった。そしてなお事実なのは、革命家とは「その他多勢」ではなく、多くの人の中の一握りであって、即ち単なる「個人」でしかないことだ。
たから結局のところ、どちらにせよ、ある個人的な思いで走り出した活動が、異なる事情の人々に布教されていく過程を革命と言うのだ。
まかりまちがってもそれは、どれだけ影響ある「アイコン」が活動していたとしても、誰かのためにはならない。どのような思いがあるにせよ、革命とはそういうものであって、そこに横たわるのはやはり、「人は人」でしかないこと、「個人的なことは個人的なこと」にすぎないという純然たる事実である。
もはや革命的な出来事が当たり前の昨今、しかしそれはなんら特別なことではなくて、つまるところ今までどおり「個人的な活動」にすぎないのである。最後に誰が笑うか。そういうゲームとして構成されたこの世の中は、だがそれが対岸の火事ではなく、その思いや闘争、被害や加害すらゲームの材料として過熱させられる鉄火場だ。
だからこそそれは「与えられる」ものではない。あるはずがない。どのような革命も個人的なものであり、「私」には私のそれしかないはずなのである。
だから私たちは、日々起こる革命に翻弄される必要も意味も、そんな余裕もない。大切なのは、あるとすれば自らによる自らのための革命だ。
もし今、自分にそれが必要だとするのなら、私たちは手ずから、自分だけの思いによって革命を、自らのために起こすしかない。
それは誰かによってもらえるものではないのだから。
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